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353号 2016/9/4
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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
少なくともカレンダー上では夏が去って秋が来たのですよね。メチャクチャ暑いのは相変わらずですが、明らかに日の暮れが早くなっています。それから赤とんぼが夕日を受けてキラキラ光りながら群れをなして飛んでいます。台風の被害の話を聞くと言葉を失います。

目次

1)MJスライドショー:people in the street
2)「風向きの原則」と国谷裕子さんの述懐
3)英国版「クローズアップ現代」(?)とブレア首相
4)英国外務省の凋落?
5)「日本人は英語が下手」論がまかり通るわけ
6)グラマースクール復活の善し悪し
7)どうでも英和辞書
8)むささびの鳴き声


1)MJスライド・ショー:people in the street


今回のスライドショーは "people in the street" です。町で見かける人びと・・・要するに「普通の人たち」ということです。外国であれ、国内であれ、旅行をすると、どこにでもどうってことない人のどうってことない生活を垣間見るのですよね。そして帰ってきて自分自身のどうってことない生活を始めると、つい最近行ってきた町の風景が頭に浮かんできて懐かしい想いを持つ。しばらくすると忘れてしまうけれど、何かの拍子にあの町の道端風景を想いだす。夢に出てきたりすることもありますよね。

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2)「風向きの原則」と国谷裕子さんの述懐
岩波書店の月刊誌『世界』の2016年5月号が「テレビに未来はあるか」という特集を掲載しており、NHKの「クローズアップ現代」のキャスターを3月で降板した国谷裕子さんが「インタビューという仕事」というタイトルのエッセイを寄稿しています。彼女はあの番組のキャスターを23年間やったのですが、その間に手がけたインタビューを振り返りながら、インタビュアーという仕事の面白さや難しさについて語っている。


例えば1997年にペルーの日本大使館で起こった日本人の人質事件の後、来日したフジモリ大統領とのインタビューでは、人質救出に尽くした大統領についてのみならず、彼の独裁的な政治がペルー国内で問題になっていることを取り上げて質問した。すると視聴者から「日本人を救出してくれた恩人に対して失礼だ」という趣旨の抗議電話が殺到したのだそうです。これついて国谷さんは次のように書いています。
  • 世の中の多くの人が支持している人にたいして、寄り添う形ではなく批判の声を直接投げかけたり、重要な点を繰り返し問うと、こういった反応がしばしばおきる。しかし、この人に感謝したい、この人の改革を支持したいという感情の共同体とも言うべきものがあるなかでインタビューする場合、私は、そういう一体感があるからこそ、あえてネガティブな方向からの質問をすべきと考えている。
「感情の共同体」とは上手い表現だと思いませんか?インタビュアー(ジャーナリスト)にとって大切なのは、みんなが同じように考えたり、感じたりしているときに「ちょっと違うんでない?」と水を差すようなことも質問するということですよね。みんなが「Aだ、Aだ」と言っている中で「Bかもしれない」などというと、世間では変人扱いされるわけですが、国谷さんのエッセイを読んでいるとメディアの世界でもそのようなことが起こっているように思われる。劇作家の井上ひさしの言葉に「風向きの原則」というのがあるのだそうです。
  • 風向きがメディアによって広められているうちに、その風が強くなり、誰も逆らえないほどになると、「みんなそう言っている」ということになってしまう。そしてその中で少数派、異質なものの排除が進んでいく。

ということです。国谷さんは、「最近ますますそうした同調圧力が強くなってきている気がする」と言っている。流れに逆らわずに「多数」に同調するのが当たり前だという雰囲気の中で「メディアまでが、その圧力に加担するようになってはいないか」というのが国谷さんの自問です。つまりメディアが先頭に立って読者や視聴者に「同調圧力」をかけているということですよね。オリンピックのメダリストについて「日本の誇りだよ、な?な?そうだろ?」という、あれです。そう言われると「2020年の東京五輪は返上した方がいい」とは言いにくい。

テレビとか新聞社のような大きなメディアによる読者や視聴者に対する「同調圧力」が強まっているけれど、国谷さんはまた、いまでは普通の人たちが「直接情報を発信する手軽な手段を手に入れ」、「ジャーナリズムというものを“余計なフィルター”と見なそうとする動きさえ出てきている」時代でもあると分析しています。いわばアマチュア・ジャーナリズムの時代であるわけですが、
  • 社会が複雑化し、何が起きているのか見えにくくなるなか、人々の情報へのリテラシーを高めるためにも、権力を持ち、多くの人々の生活に影響を及ぼすような決断をする人物を多角的にチェックする必要性はむしろ高まっている。
と国谷さんは指摘しています。「情報へのリテラシーを高める」とは、さまざまなところから出てくる情報を鵜呑みにすることなく、自分のアタマや感覚を使っていろいろな角度から考えるという意味であると(むささびは)解釈するのですが、そのための助けをすることに生活をかけているのがプロのジャーナリストであると国谷さんは言っているのですよね。

▼国谷さんに言われるまでもなく、最近は井上ひさしのいわゆる「風向きの原則」だらけという気がしませんか?舛添要一はアホで悪いやつ、STAP細胞の小保方はとんでもない女 etc。過去のむささびで何度か使ったジョージ・バーナードショーの言葉に "The minority is sometimes right; the majority always wrong"(少数意見もたまには正しいことがあるけれど、多数意見は常に間違っている)というのがある。読者としてのむささびが思うに、優れたインタビュアーとかジャーナリストであるための必須条件の一つとして「ひねくれ根性」というのが絶対にある。間違っても「多数」の側には立たないという意地ですね。当たり前ですよね、「多数意見」はジャーナリストがあえて手を貸さなくても皆が知っている意見なのですからね。

▼国谷さんのエッセイにこれを当てはめると、フジモリさんを「日本人の恩人」とするのが「多数意見」となる。だから「ひょっとして独裁者なのでは?」などと言おうものなら「多数」の反発を買って、素直でない、嫌なヤツだということになる。そう思ってもらうことが、プロのインタビュアーとしての勲章みたいなものですよね。

むささびジャーナル291号の「むささびの鳴き声」で「クローズアップ現代」について書いていますね。正確に言うと、あの小保方晴子さんのSTAP細胞に関連してこの番組が行った報道のやり方について書いている。あの番組では「STAP細胞はあります」という小保方さんの主張に対して、「科学者」と言われる人たちが批判的な見解を示していたのですが、それが匿名で、しかもコメント自体がワープロによる書面回答というやり方だった。それについてむささびは、小保方さんが実名で顔まで出して意見を言っているのに、それを批判する意見が「匿名」というのはアンフェアであると思ったということです。ここをクリックすると、その番組を見ることができます。

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3)英国版「クローズアップ現代」(?)とブレア首相


『クローズアップ現代』のキャスターであった国谷裕子さんが雑誌『世界』に寄稿したエッセイの中で、インタビューされる側に対して批判的な意見を紹介しながら「・・・という声もあるが」という質問をすると、まるで国谷さん自身が批判的な意見を持っているように見なされ「番組は公平性を欠いているとの指摘もたびたび受ける」と言っている。

一方最初からインタビューされる人間に対して喧嘩腰で臨むやり方を売り物にした(ように見えた)のが数年前までBBCのNewsnightという番組の司会をやっていたジェレミー・パックスマン(Jeremy Paxman)です。特に政治家を問い詰めるやり方に人気があったのですが、単なるジェスチャーとして嫌う人もいる。そのパックスマンが、今から13年前の2003年2月6日、ブレア首相(当時)と行ったインタビューの一部を紹介します。この番組についてはむささびの291号でも紹介したのですが、今回はちょっとアングルを変えて紹介します。

イラク戦争が始まる約1か月半前に行われたものなのですが、正確にいうと「インタビュー」というよりも視聴者参加の「対話集会」です。Newsnightの特別企画として行われたもので、スタジオのようなところにブレア首相を招き、パックスマンの司会で首相と会場に集まった視聴者の「対話」を進めたものです。ちょっと変わっていたのは、この集会に参加した視聴者(約15人)は全員、ブレアがアメリカとともに進めようとしていたイラク爆撃に反対の意見を持っていたということです。いわば戦争を進める首相が、反戦集会に乗り込んで議論を交わすという設定だった。

ここではパックスマンとブレアのやりとりのほんの一部だけ紹介します。このインタビューはここをクリックすると動画で見ることができるし、ここをクリックすると文字で読むことができます。

イラク爆撃の大義名分は?
パックスマン:英国軍を戦争に参加させようと言うからには、この国(英国)に対する危険が明確かつ避けようのないものである必要があります。どのような危険が差し迫っているというのですか?
ブレア:イラクに大量破壊兵器を許してしまうと中東地域にとって大変な脅威になる。危険というのはそのことです。黙ってみているわけにはいかない。
しかし今現在は英国に危険が迫っているわけではない。あなたが言っているのは将来の危険ですよね。
私は、イラクが今すぐに英国を攻撃するなどと言ったことはない。ただフセインの過去を見れば、彼自身の存在そのものが中東の脅威になっていることには疑問の余地がないですよ(absolutely no doubt at all)。もし彼が化学兵器・生物兵器・核兵器などを使う可能性があるのであれば英国も全世界も黙認することなど出来るわけがない。だからこそ過去12年間、国連が彼に対する反対決議を何度も採択してきたのです。
あなたは以前、国連の決議や経済制裁がサダム・フセインを「封じ込め」(contain)ていると言っている。つまり封じ込めているのだから危険性はないということだった。あれから意見が変わったってことですか?
私はそんなことは言っていない。私が言ったのは、国連によってサダム・フセインがある程度までは(to a point)封じ込められていると言っただけだ。しかも実際には・・・
(資料を見ながら)残念ですが、首相、あなたはこう言っているんです。「サダム・フセインは過去10年間における制裁によって効果的に封じ込められている」(we believe that the sanctions regime has effectively contained Saddam Hussein in the last ten years)と。2000年11月にそう言っているじゃありませんか。

このようにやりとりする中で、イラクにおける兵器開発に関する国連の査察団がまともな査察活動ができずに退去したという話になる。

 
 
国連査察団は「追い出された」のか?
首相:査察団はイラクから追い出された(put out of Iraq)のですよ。つまり・・・
パックスマン:査察団がイラクから追い出されたことはありませんよ、首相。それはまったく事実ではありません。武器査察団はイラクを自ら立ち去ったのですよ。なぜならアメリカからイラクへの爆撃のことを知らされたからです。
それは違う。査察団が我々に語ったのは、イラク国内で兵器開発の現場に立ち入ることが許されないから、仕事が出来ないということだった。だから我々は、まともな仕事ができないのなら退去するべきだと言っただけだ。
でもあなたはそうは言わなかった。査察団はイラクから「放り出された」(thrown out)と言ったんですよ。
やるべき仕事ができないというのだから、事実上放り出されたようなものだ。
違いますよ。彼らは事実上放り出されたのでありません。彼らは自分で撤退したんですよ。

このようなやりとりが延々続きます。会場でこのやりとりを聞いていた視聴者(女性)がブレア首相に対して次のように質問する場面があります。ちょっと長いのですが、そのまま紹介します。


  • イラクの核兵器を責めるのは偽善だ
  • 私は誰であれ核兵器を所持したり開発したりすることには反対です。でもそれは英国やアメリカが持っている核兵器についても当てはまる。英国にはたくさんの核兵器があるし、アメリカも同じです。アメリカはこれを投下したことだってある。そのことは忘れないようにしましょうよ。自分たちの核兵器廃棄については殆ど何もしないくせに、イラクが核兵器開発を行っていることを批判するんですか?どうにもならないほど偽善的なのではありませんか?(Isn't it incredibly hypocritical?)
「偽善的ではないか?」という問いに対してブレア首相は次のように答えます。
  • そうは思いませんよ。理由は二つです。まず我々(英米などの核保有国)は核兵器にまつわるさまざまな協定によって縛られているということ。もう一つは、英国に関しては、そのような兵器を使って近隣諸国を脅かしたり、侵略したことはないということです。
というわけで、ブレアさんは「サダムのような人間に核兵器を持たせたら世界中がタイヘンなことになる」ということを延々と主張した。


「罪のない人々」が死ぬことについて
次に別の女性が「戦争になれば、イラク人のみならず罪もないアメリカ人や英国人が多く死ぬことになるが・・・」と質問すると、ブレア首相は「戦争や紛争になればそうなります・・・」(If you get into war and conflict it is true -)と答える。質問者が「戦争は避けられるのか?」(Can it be avoided?)と食い下がると、ブレア首相は
  • 避けることは出来ますよ、サダム・フセインが国連の言うことに従うのなら・・・
    Well it can be avoided if Saddam abides by the United Nations.
と答えたうえで、「自分が英国で出会ったイラク人難民がサダム・フセインが如何にひどい独裁者であるかを語っていた」という趣旨のことを延々と語り始める。すると質問者の女性が
  • 私の質問に答えていないじゃありませんか。
    No coming back to my question.
とブレアのトークをさえぎるように口をはさむ。パックスマンが引き取って「あなた(首相)はキリスト教徒として罪のない人びとが死ぬことをどのように感じるのか?」と質問すると会場が拍手で包まれる。その質問に対してブレアさんは
  • だからこそ出来ることなら戦争は避けるものなのであり、我々は国連を通じて行動しているのですよ。しかしコソボやアフガニスタンでは、残念ながら罪のない人も罪がある人も死にました。でも私は、両方ともああするしかなかったのだと感じました。
という趣旨の答えをする。要するに「必要に応じて戦争もやむを得ない」と、延々自説を主張したわけです。この番組が放映されてから1か月半後にブレアさんは下院において、アメリカのイラク攻撃に参加するべきだという大演説を行い412対149でこれが受け入れられたわけです。下院における演説の動画はここをクリックすると見ることができ、演説原稿の文字はここをクリックすると読むことが出来ます。

▼イラク戦争に反対する視聴者だけを集めた「対話集会」のイントロの部分で、司会のパックスマンは「ブレア首相自身が、イラク戦争への参加について国民の理解が得られていないと感じている」(He has confessed himself worried he has not yet made the case for war)と述べています。Newsnightは日本の「クローズアップ現代」と同じように人気のあるニュース番組だった。この対話集会への参加を打診されたブレア首相がこれを受けることにしたのは、反対者を集めた人気テレビ番組で説得力のある議論を展開することで、自分の政策に対する国民的な支持が高まると考えたということなのではないかと(むささびは)想像するわけです。

▼ジェレミー・パックスマンの番組におけるブレア首相の振る舞い、下院における演説の様子などを見て、「自説を曲げることなく実行したリーダーシップは素晴らしい」という称賛の声を発する人がいるかもしれないけれど、13年経ってこれが否定されたわけですよね。むささびは調査委員会が否定したからダメだという結果論を展開するつもりはありません。むしろあの「対話集会」でブレアさんが主張した「コソボやアフガニスタンの攻撃は止むを得なかった(正しかった)」という発想そのものも誤りだったと思わずにいられない。欧米のメディアは、イラク戦争は「あと処理が下手くそだったから間違っていた」という意見に落着きがちです。頼みもしないのに、土足で上がり込んできて、独裁者とはいえ自分たちのリーダーを捕まえて死刑にした英米に対するイラク人の想いについては全く語られることがない。

▼ところでジェレミー・パックスマンですが、最近のGuardianによると、「筆は禍のもと」のようなことをやっているようです。高齢者を対象にしたMature Timesという新聞についてファイナンシャル・タイムズの紙上で「英国で発行されているものの中で最もダサいもの」(the most unfashionable publication in Britain)とけなした挙句、年金生活をしている高齢者について「失禁とボケに取りつかれた死体同然の存在」(“virtual corpses” riddled with “incontinence and idiocy”)と書いてしまった。何が気に入らなくてそんなことを書いたのか分からないけれど、言われた発行主はカンカンに怒っており、パックスマンに謝罪を求めている。実はパックスマンン自身、ことしで66才になるんだそうですね。


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4)英国外務省の凋落?

前の記事で、13年も前(2003年)に英国のテレビ・ジャーナリストであるジェレミー・パックスマンが司会をして行われたブレア首相と視聴者の対話集会について紹介しました。イラク攻撃に反対する視聴者を前にブレアさんは熱心にフセイン政権の打倒訴えた。その後国会の承認を得て2003年3月19日にイラク爆撃に踏み切る。が、そのブレアさんの行動が2016年になって政府の独立調査委員会(チルコット委員会)によって「誤りであった」と決めつけられたわけです。


あの調査委員会は「イラク侵攻が何をもたらすのかについての見通しが極めて甘かった」という趣旨の裁定を下したわけですが、中東関係の専門記者、ジョナサン・スチールが7月28日付の書評誌 "London Review of Books"(LRB)に、ブレア政権がイラク攻撃を決定するに当たって、英国外務省(Foreign and Commonwealth Office: FCO)が果たした(もしくは果たさなかった)役割を問い直す記事を寄稿しています。

まずチルコット調査委員会の報告書によると、イラク攻撃が始まる前の段階で、戦争に伴う4つのリスクが指摘されていた。
  • イラク国内の紛争の激化
  • イランがイラク混乱を利用する
  • 中東全体の不安定化
  • 国際テロ組織、アルカイダの攻勢激化
この4点のうちアルカイダについては、英国の情報機関(MI5)が、もしイラク攻撃を行なえば、中東はもちろんのこと英国内においてもアルカイダに参加しようとする若者が増えるだろうと警告していた。残りの3点については専門家の間では大いに議論されていたけれど、外務省の注目を浴びることはなかった・・・とスチール記者は言っている。


ワシントンの英国大使公邸
外務省はそもそも戦後のイラク政治の混乱や宗教的・部族的対立などについて予測するペーパーを提出することさえしなかったのだそうです。担当部局によるメモ程度のものは残っているけれど、どれも極めて漠然としていたり、中身が正確とは思えなかったりというものが多い。例えば攻撃開始の約半年前に提出されたメモによると、フセイン政権崩壊後のイラクでは宗教的・部族的な対立が激化すると予測(これは正しい)しながらも、政治的にはイスラム教スンニ派が主導権を握るだろうなどと予測している。国民の6割がシーア派であることを考えると、この予測が何を根拠にしているのかが分からない(とスチール記者は言います)。また開戦前のイラクを視察して帰国した外務省の担当官は、イラクにいるキリスト教徒が心配していると報告しながらも
  • (イラクにおける)欧米の存在がアラブ世界やイスラム教の世界からの反発を招くと憂慮するだけの根拠がないと思える。
    Concerns about an Arab or Islamic backlash against a large Western presence seem unfounded.
と述べたりしている。

それにしても英国外務省による開戦前の状況把握はなぜかくもお粗末だったのか?スチールによると、それには二つの理由があった。まず、外務省は国連において英米が提出したさまざまな決議について加盟国の支持を取り付けることに大忙しだった。さらに(もっと重要なのは)イラク問題についてアメリカ政府内での主導権が国務省からペンタゴンへ移ってしまったあたりから、英国の役割はそれほど重要と見なされなくなってしまったことがある。外務省のスタッフがペンタゴンに対してイラクの政府や軍の枠組みを崩壊させることは避けるべきだと進言したにもかかわらず、ペンタゴンはイラク軍を解体させ、幹部をクビにしてしまった。要するに英国外務省の言うことなど聴く耳を持たなかった。

外務省に言わせれば、いろいろと理屈はあるかもしれないが、イラクというアラブの大国を攻撃しようというのだから、それなりに深刻な結果が予測される。なのにそれについて何の警告も発しなかったというのは怠慢としか言いようがない、とスチールは主張しています。開戦前に駐仏大使を務めていた人物によると、イラク攻撃については外務省内部でも大きな不安(a lot of unease)があったし、自分も外務省幹部宛てに、攻撃を開始すればヨーロッパや中東における「外交活動」が崩壊してしまうと「個人的に」警告したのだとか。


また、かつて大使を務めたことのある人物はスチール記者に対して、2003年の開戦直前のような状況では、外務省の事務次官が外務大臣に対して正式なメモを提出、イラク攻撃がもたらす不安定について警告するのが普通であると語っているのですが、その一方で同じ人物が
  • 役人というものは本来的に慎重なものだ。集団的自己規制のような状態に陥ってしまう。そうなると楽な生活を送ることを望む人たちは道義的にも知的にも怠慢になり、何でも大臣の言うとおりしてしまうものなのだ。
と証言したりしている。

「大臣の言うとおりにしてしまう」というけれど、今やその大臣がEU離脱の旗振り役だったボリス・ジョンソンであるわけです。ボリスといえば、コンゴの要人について「スイカのような笑顔を振りまく酋長」などと呼んだりする失言・暴言で知られている。そのような人物が「大臣」の座に坐るということは外務省職員にとっては「刑罰」を与えられたようなものだというわけです。また現在の英国にとって最大の課題はEU離脱に伴う国際的な交渉であるはず。なのにそれは外務省とは別の「EU離脱省」(Department for Exiting the European Union)という役所の責任となっている。

外務省と言えば、ロンドンの官庁街(Whitehall)の中でもとびきり上等の知的集団とされてきたけれど、スチールによるならば、「EU離脱省」などという役所が新設されること自体が外務省の長期的な凋落傾向を象徴している。そしてボリス・ジョンソンのような「何も考えない道化役者」(careless clown)がトップに坐ることで単なる貿易促進のための役所に成り下がることになる。ただスチール記者によるならば、
  • 外務省はイラク戦争以前からそのような方向に向かっていたのではあるけれど・・・。
    It’s where it has been heading since well before the war in Iraq.
とのことであります。

▼英国がアメリカのイラク戦争にのめり込んでしまったについては、ジョナサン・スチールが批判するように、外務省のお役人たちの至らなさがあったことは確かなのであろうけれど、2003年当時にジャーナリストのアンソニー・サンプソンが「英国には外務省が二つある」というニュアンスのエッセイを新聞に寄稿していたことを思い出します(むささびジャーナル18号)。サンプソンによると、あの頃、ブレア首相の特別補佐官(special advisor)のような肩書の人間がかなり大きな顔をしていたのですよね。それまでの英国の政治にはないスタイルだった。ブレア首相は外務省の言うことより、彼の「外交政策アドバイザー」の言うことを聞くようになってしまっていた。アンソニー・サンプソンは、このようなブレア・スタイルについて、政策を決めるにあたって客観的な分析などを欠いた極めて「政治的」な思惑で決められていることを意味しており、「英国にとって危険なことである」と批判していた。

▼ブレアのやり方は、現在の日本の政権が「官邸主導」というやり方で政策を決めているのと大いに似ている。安倍さんや彼の取り巻きは、あの当時のブレアのやり方を見て大いに感銘を受けた部分があったのではないか・・・というのはむささびの想像に過ぎませんが、多分当たっている。


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5)「日本人は英語が下手」論がまかり通るわけ
 

8月27日付のThe Economistに「日本の英語教育」(Learning English in Japan)という記事が出ているます。
  • (日本では)バスも電車も実に時間通りに来るし、日本の技術者の正確な仕事は有名だ。なのに英語となると、日本人にしては珍しくといっていいほどダメなのだ。
    Its buses and trains arrive on the dot. Its engineers are famously precise. But when it comes to English, Japan is uncharacteristically sloppy.
という書き出しになっており、日本人の英語下手の例として、看板類で使われている英語のスペルは間違いだらけだし、タクシーの運転手は外人客だと「英会話表現集」(phrasebook)のようなものを指さして「これを使ってくれ」というし、店の名前で英語のものを使っているお店の中には「どうしようもなく間違った」(horribly wrong)ものもある・・・といろいろ挙げられている(店の名前で "horribly wrong" なものの例として紹介されているのが、「リサイクルコスメ」の「プープディック」(Poopdick)というお店です。確かに変わった名前ですね)。というわけで、「日本政府は英語のレッスンで経済の活性化を図っている」(The government hopes to boost the economy with English lessons)とのことであります。

この記事は、英語を使える日本人が他の先進国よりも非常に少ないとして、アメリカの大学に留学する際に英語力判定のために使われるTOEFLというテストにおいて日本人の平均点は120か国中の71位、東アジアにおいて日本よりダメなのはラオスとカンボジアだけであることを挙げています。

で、政府の方針として、小学校における英語教育をこれまでより2年早めて8才からとすること、さらに読み・書き・文法よりも「コミュニケーション」を大事する授業を行なうと発表されたとのことであります(そうなんですか?)。The Economistの記事は東京外国語大学のHideyuki Takashimaという先生の
  • 日本人には外国の文化を理解し、自分たちのことを外国人に伝えるためにも英語が必要なのだ。
    We need English to understand other cultures and explain ourselves to them.
と言うコメントを紹介している。さらに日本企業の中には社員の英語力を高めることに熱心なところもあり、その例としてネット通販の楽天や自動車メーカーのホンダを挙げている。楽天では社内会議は英語のみで行われ、ホンダでは2020年までに英語を「オフィシャル言語」とすることにしているのだそうですね。


で、日本人はなぜ英語が下手なのか?The Economistの記事によると「文化の壁」(cultural barriers)が大きいのだ、と。日本人は英語を使う必要がない。なぜなら「海外旅行することはまれであり、仕事場でも英語を使う必要はない」(they rarely travel abroad and work in jobs that don’t require it)。さらに
  • 伝統を大事にする人たちは日本文化の純粋性を守りたいとして、現状のままであることを望んでいる。
    Traditionalists, eager to maintain the purity of Japanese culture, would be happy for things to stay that way.
ということもある。The Economistはまた上智大学のKensaku Yoshidaという教授が、日本人の英語下手の最大の理由は「自信の欠如」(lack of confidence)であると言っていると伝えている。教授によると、日本人の多くが、英語国の人間でなければ犯しても不思議ではないような間違いをすることを大いに恥ずかしいことであると考えてしまう、そして英語を使うことを止めてしまう・・・というわけです。そして教授は次のように言っています。
  • 我々は、ネイティブスピーカーのように(英語を)しゃべる必要はないということを分かる必要がある。我々はコミュニケーションをすればいいだけのことなのだ。
    We need to accept that we don’t have to talk like native speakers. We just have to communicate.
この記事には読者からのコメントがいろいろと寄せられているのですが、あるアメリカ人によると、日本人は余りにも完ぺき主義すぎるのだそうです。

▼はっきり言って、The Economistのこの記事はひどいものであると(むささびは)思います。例えば「日本人は海外旅行することが稀である(rarely travel abroad)」なんて、本当ですか?それから日本の伝統を大事にしたいTraditionalistsは「現状のままがいいと思っている」と言うけれど、そのTraditionalistって、例えば誰ですか?具体的な人物の発言を引用するべきなのでは?ひょっとしてシンゾーのこと?

▼日本人のTOEFLは東アジアで下から3番目である、と。ランキングの資料を見ると、日本人受験者の平均点は71点で、確かに韓国(83点)、中国(78点)より低い。北朝鮮は80点だから日本人や中国人よりも上ですね。でもこれはTOEFL受験者の平均点です。それぞれの国においてどのような人が何人くらいTOEFLなるものを受けているのか?日本では「猫も杓子もTOEFL」なのに対して、他のアジアの国の場合はそれなりに限られた階層の人たちだけが受けるという傾向はないのか?これはむささびの想像(間違っているかもしれない)に基づく疑問です。ちなみにブラジルの平均点は87です。

▼日本は今でこそ経済力がかつてほどのスーパーパワーではないかもしれないけれど、一時は日本の製品が世界を席巻、「世界第二の経済大国」と言われて喜んでいましたよね。その頃の日本はTOEFLナンバーワンだったのですか?それが落ち目になったのは英語力が落ちたことが原因なのですか?

▼上智大学のKensaku Yoshida教授は、ネイティブのように話す必要はない「コミュニケーションが出来ればいいのだ」(We just have to communicate)と言っています。どういう意味?いわゆるカタカナ・イングリッシュを恥じる必要はないってこと?そんなこと、当たり前なんじゃありません?「ウィー・ジャスト・ハフト・コミュニケート」と言って、相手が分かってくれるのであればそれだっていいに決まっている。それだと分かってもらえないことが多いから、必要に応じてそれなりの発音にしようってことなのですよね。

▼いずれにしても日本人の「英語べた」は過去何十年言われてきたことか?日本人自身が言ってきたことであり、今さらThe Economistに教えてもらう必要はない。この記事は、英語学校や英語教材制作会社からもらったPR資料をそのまま使ったのでは?英語に限らず外国語ができると世界が広くなる、そのこと自体は素晴しいことであると思うけれど、歌が上手・おいしい料理が作れる・野球がうまい・他人に親切・・・などの「特技」でも外国の人たちとの交わりはできるし、世界は広がる。何故それほど「英語ができる」ということにこだわるか?TOEFLの成績がビリから3番目であることで何か日本や日本人に不都合なことでもあったんですか?
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6)グラマースクール復活の善し悪し
 

EUに関する国民投票で「離脱」が勝利したことで浮彫りになったのが、英国における社会的な溝や格差の存在であると言われています。イングランドとそれ以外の「地域」(スコットランドなど)の間の溝、南イングランドと北イングランドの経済格差等々、EUとは無関係なはずなのですが、あの国民投票を機に人びとの間の対立感情のようなものまで露呈されてしまった。というわけで、新しく首相に就任したティリーザ・メイにとって極めて重要な仕事の一つが、英国における「社会的一体感」(social cohesion)を取り戻すことであるとされている。


7月13日、正式に新首相に就任したメイ首相が首相官邸前で国民向けに行った短いスピーチにもそのことがはっきり謳われている。例えば次の一文は教育における格差解消を訴えている。
  • 公立学校へ通った人は私立学校に通った人間よりもトップの職業に就く可能性が低い。
    If you’re at a state school, you’re less likely to reach the top professions than if you’re educated privately.
そこでメイ政権が打ち出したのが中等教育におけるグラマー・スクール(grammar school)の復活です。グラマースクールというのは、公立の中学なのに入学試験に受からないと入れない学校のことです。普通の公立中学には入学試験はないのですが、グラマースクールへの進学希望者は11才になった時点(小学校卒業の時点)で試験を受ける必要がある。

 グラマー・スクールの数の推移。終戦直後には1200校もあったけれど、いまでは全部で163校しかない。

グラマースクールそのものの歴史は400年以上も前に始まったものなのですが、現在のようなものが出来たのは第二次大戦後のことです。高校・大学まで行けるような子供は金持ち・上流階級の子弟に限られており、みんな私立学校へ進んだのに対して「金持ちではないけれどアタマのいい子」のための公立学校を作ろうというのがその趣旨だった。ただグラマースクールは成績優秀な児童のみが入学を許される制度であるところから、結局は社会の「階級」がより色濃く反映されるものということで、政府の方針で1970年代半ばにはすでに廃止されるようになった。そして1998年、当時のブレアの労働党政権によって新設のグラマースクールは認められないことになった。つまり現存するものを除いて廃止されてしまい、現在ではイングランドでは約3000ある公立中学のうち163校、北アイルランドでは69校がグラマーで、スコットランドとウェールズにはグラマースクールはない。

ただ、メイ首相(彼女もグラマースクール出身)に言わせるならば、いまの英国ではトップの職業人は圧倒的に私立校(学費が高い)出身者で占められており、それが社会的な格差や分断につながっている。これを解消するためには公立学校出身者に対してもそのような機会を与えなければならない・・・というわけで社会的な格差解消の手段の一つとしてグラマースクールの復活を考えているわけです。実は1964年から1997年までの33年間で5人の首相がいる(ウィルソン、ヒース、キャラハン、サッチャー、メージャー)のですが、5人ともグラマースクールの出身者なのですね。


が、The Economist(8月13日付)などは、このやり方について社会的流動性を損なう(would damage social mobility)ものであり、メイ首相が目指す「社会的一体感」の創出には繋がらず、グラマーの復活は間違っているなどと批判しています。グラマースクールの存在が社会的流動性を促進するというのであれば、これを復活させる意味があるけれど、The Economistによると、グラマースクールはこれを却って阻害しているというわけです。

教育政策研究所(Education Policy Institute)の調べでは、11才の児童に関しては、いわゆる貧困家庭の児童は普通の子供たちよりも教育水準が10か月ほど遅れているという結果が出ているのだそうです。つまり11才のときに行われるグラマースクールの入学試験に貧困家庭の児童が合格する確率は極めて低いということになる。そうなるとグラマースクールの恩恵を受けるのは、実際には経済的に恵まれたミドルクラスの子供たちなのではないかということです。


さらに、現在のグラマースクールで無料の学校給食を受けている貧困家庭の児童は全体の3%であり、普通の公立中学では13%・・・という数字から見てもグラマースクールが必ずしも経済的に恵まれない家庭の子供たちが通っているわけではないことが分かるではないかというわけです。グラマースクールは公立でありながらアタマのいい生徒だけが集まる学校だから、親としては家庭教師を雇ってでも子供が受験に合格するように努める。つまり家庭教師を雇えるような金銭的な余裕のある家庭の子供が集まる。地元の私立校もグラマーに生徒を取られることになる。

グラマー支持者には低所得者層が暮らすエリアに作ることで、貧困家庭の子息にも門戸を広げることができるという声もあるけれど、The Economistによると親はいい教育のためなら長時間通学もいとわない人が多い。事実現在のグラマースクールの学生のほぼ4分の1が「越境入学」なのだそうです。いくら「貧困エリア」にこれを作っても結局は金持ちの子息に占領されてしまうのではないかということです。というわけで、The Economistは
  • メイ首相の意図は悪くないにしても、選抜試験を再導入することが、彼女の将来の閣僚たちの多様性に繋がる可能性はほとんどない。
    Regardless of Mrs May’s fine intentions, reintroducing selection would do little to improve the diversity of future cabinets.

と言っています。つまりいくらグラマースクールを復活させたとしても、それが社会的流動性、即ち貧困層の出身でもトップにまでのぼることができるような状態に繋がることはないだろうということです。

▼社会的流動性に関する調査・研究を行っているサットン財団(Sutton Trust)が2016年初めに発表した "Leading People 2016" によると、公的色彩の強い職業人の子供時代の学歴は上のようになっている。「ノーベル賞受賞者」についてはこれまでの受賞者の略歴を調べたものですが、他の職業については2016年初めの職業人に関する情報です。公務員と産業人以外はどれも「私立学校」の出身者の方が多くなっている。

▼上のグラフだけ見ると、それほどピンとこないかもしれないけれど、昨年(2015年)の数字によると英国(イングランド)における小中学校の生徒数はざっと840万人、うち私立学校の生徒は58万人。全体のざっと7%にすぎない。その数字をアタマにおいて上の数字を見ると、英国という国の指導的な部分がいかに不釣り合いに私立校出身者で占められているかが分かる。

▼グラマースクール復活を目指すメイ政権ですが、閣僚27人の学歴を見ると、中等教育の段階で私立学校に通っていた者は8人で全体の約3分の1、グラマースクール出身者も8人、普通の公立中学に通った者は11人となっている。私立出身者はキャメロン内閣では50%だったのだから減っているとはいえる。キャメロン以前の保守党内閣における私立学校出身者は、メージャー内閣(1992年)は72%、サッチャー内閣(1979年)に至っては91%だから、殆ど私立出身者で占められていたようなものです。サッチャーさんは、それまでの英国の体制をぶち壊した「革命家」と言われているけれど、内閣を見ると「体制」そのものであったということになる。ついでにメイ内閣の閣僚の出身大学については、オックスフォードが7人、ケンブリッジ5人だから「オックスブリッジ」で半分弱を占め、その他の大学が14人、大学を出ていない人が1人となっています。

▼白状すると、むささびは英国における教育制度のことを語るのは苦手であります。日本(やアメリカ)に比べると余りにもいろいろな「学校」がありすぎてややこしくて仕方ないわけです。だからここではそのことについて語るのは止めにします。むささびが知っている英国人にも「グラマースクール」出身者はいる。みなさんアタマがいい。日本の感覚に当てはめると、英国の私立学校は日本でいう「名門」の私立学校ですね。開成・麻布・灘などなど。グラマースクールは、かつての都立・県立の名門なんじゃないですか?東京でいうとかつての日比谷高校、埼玉県の浦和高校、宮城の仙台一高とか・・・。


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7) どうでも英和辞書
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typhoons:台風


先日、夕方のテレビ・ニュースを見ていたら天気予報の専門家が「ハリケーンと台風の違いはですねぇ・・・」とやり始めたので、むささびも思わず膝を乗り出してしまったわけです。前々から気になっていたのでありますよ。じっと見ていたら、太平洋を挟んで左に日本、右にアメリカという大きな地図を張り出して、真ん中に経度の線が引かれている。そして何を言うのかと思っていたら「この線の右側にあるのはハリケーンと呼ぶのですが、それが左側へ移ると台風になるんですよ」とのことでありました。つまり同じような強風・豪雨という現象のことを場所によってハリケーンと言ったり、台風(typhoon)と言ったり、あるいはサイクロン(cyclone)と呼んだりするってことだった。だったら「ハリケーンと台風の違いはですねぇ・・・」などともったいぶった言い方するんじゃねぇ!と怒鳴りつけようと思ったのですが、止めてトイレへ行くことにしたわけさ。

アメリカ商務省の海洋情報サービス(National Ocean Service)のサイトは
  • ハリケーン、サイクロン、台風・・・どれも同じ気象現象。場所が変わると違う言い方をしているだけのこと。
    Hurricanes, cyclones, and typhoons are all the same weather phenomenon; we just use different names for these storms in different places.
と実にそっけない。むささびは、てっきり性格上の違いがあるんだと思っていたわけさ。BBCのサイトに出ていた地図(上)によると、北西太平洋および南シナ海で起こるのが台風、北大西洋、カリブ海、メキシコ湾で起こるのがハリケーン、そしてインド洋や南太平洋に発生するのがサイクロンである、と。日本では台風は発生した順に番号がついているけれど、ハリケーンの場合はなぜか人間の名前になっている。

最近、フロリダを襲ったものは「ハリケーン・ハーマイン」(Hurricane Hermine)と呼ばれている。ハリケーンに名前を付けるのは世界気象機構(World Meteorological Organisation:WMO)という組織で、実は年ごとに名前の候補がいくつもあり、その中から選ばれるようなのでありますよ。さらに言うと、台風にもWMO認定の名前がついているのですね。それぞれに名付け親である国がある。Japanが付けた名前としては "Tembin", "Usagi", "Kanmuri", "Koppu", "Tokage"などがある。
"Koppu"って何ですかね。台風だから「コップの中の嵐」という洒落?

人名は1グループ21個で6グループに分かれてリストアップされている。それぞれのグループが6年周期で使われる。例えば2016年のグループにはAlex, Bonnieなど21の名前があるわけで、その中にHermineも含まれている。で、この2016年組の名前が使われるのは、次は2022年ということになる。ただ2005年に米ルイジアナ州を襲った「カトリーナ」は、2000人以上もの死者を出してしまったというわけで、永久にこの命名リストから除外されているとのことです。詳しくはWMOのサイトに出ています。ハリケーンのネームリストというのはなぜか見ていて可笑しいですね。

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8) むささびの鳴き声
▼いきなりですが、「逸失利益」という日本語を見て何のことだかすぐに分かります?むささびには分かりませんでした。作家の雨宮処凛(かりん)さんが自分のブログで、あの「相模原事件」のことを語る中で出てきたのが「逸失利益」という言葉です。例えば誰かが交通事故で亡くなったとします。その際に裁判で話題になるのが、被害者が生きていたら、将来得られたはずの収入のことですよね。それによって損害賠償の額などが決められたりする、あれです。雨宮さんによると、重度障害者が事故で亡くなった場合、この「逸失利益」がゼロというケースが「ままあった」のだそうです。何故なら重度の障害者は将来も「働けない」のだから、というわけです。
  • 逸失利益ゼロが不当として提訴した障害者の母親は「生きている価値がないのかと屈辱的だった。働くことだけが人間の命ではない」と述べている。
  • とのことであります。
▼彼女によると、日本は「いかに利益を創出したかが人の価値を計る唯一の物差しとなっている社会」であるとのことであります。まともに利益を創出していない人間は、石原慎太郎のような人(東京都知事)に「ああいう人って人格があるのかね」と言われても誰も大して怒らない社会であるということです。このようなことを読むのは、あの事件が起きてから4回目です。東大の福島智教授、和光大学の最首悟教授、自民党の野田聖子議員、そして雨宮さんというわけです。雨宮さんは8月26日付の朝日新聞のサイトでもこの問題について語っており、
  • 今大切なのは、私たち一人ひとりが意図的に経済的な価値とは異なる視点に立ち返ることだ。
  • と述べている。
▼朝日新聞におけるコメントの中でカギになるのが「意図的に」という言葉だと(むささびは)思います。「経済的な利益を生まない者は生きる価値がない」という見方を拒否することは意図的にやる必要があるということです。そうしないと、拒否することが難しくて、自分ではその気はないのに「ああいう人って人格があるのかね」という発想を受け入れてしまうということ。「意図的」ということは、「意地」の世界であるということですね。で、「意地」は英語で何というのかと思って辞書を見たら "obstinancy" という単語が出ていました。見たことない単語だったのですが、"obstinate" という形容詞の名詞なのですね。意味は"unreasonably determined"だそうであります。理性を超えた決意・・・つまり「頑固」ってことですね。「ああいう人って人格があるのかね」という考え方をする人物には「アンタの意見は気に入らねえものは気に入らねえ」と言ってしまうことです。英訳すると"wrong is wrong is wrong"です。

▼5番目の「日本人の英語力」ですが、先日テレビのニュースがスマホによる多言語翻訳サービスなるものを紹介していました。あなた自身が英語を使えなくても、その翻訳サービスを使えばガイジン相手でも何とかなる・・・これには笑えましたね。そんな製品が普及したら日本人はますます英語なんか自分で使わなくなるから進歩などするわけない。そもそもThe Economistの記事の前提からして間違っておる、とむささびは申しております。半世紀前に比べれば、日本人全体の英語による意思疎通能力は明らかに上がっている。だからこそ「楽天」のような会社で英語だけを使った会議なんてのが可能になるんじゃありませんか。
それを「下手だ・下手だ」と言い張ることで英会話教室が儲かる・・・とこういう図式になっているってこと?


▼台風関係で岩手県・岩泉町の老人グループホームが襲われてタイヘンな人的被害が出たというニュースを聴きながらむささびが気にしたのは、「ホーム付近には流木が流れ着いて道を塞いでいる・・・」という報道でした。どのような流木が流れ着いたのか?昨日の『報道特集』を見ると木肌がむけていたり、途中から折れていたりというわけで、現に生えていた樹木が風雨でなぎ倒されてホームを襲ったという感じではない。むしろ以前に伐採されて林に捨てられていた樹木が雨で押し流されたという感じでした。山崩れが起こったのではないのですよね?

▼日本の山には杉やヒノキがわんさと植えられていますよね。むささびがワンちゃんを連れて遊びに行く埼玉県の山奥も同じです。とにかく杉・ヒノキが多い。殆どが人間によって植樹されたのだとか。子供のころに童謡で、禿山をみたお日さまが「これこれ杉の子起きなさい」と呼びかけるものがありましたよね。むささびのつたない知識にすぎないけれど、杉やヒノキのような針葉樹というのは、発育は早いけれど根っこが浅いのだそうですね。つまり何かの衝撃を与えられると比較的簡単に倒れてしまう。これがナラとかブナのような広葉樹だと地面に深く根を下ろすので、ブナ林などは山崩れが起きにくいというわけです。

▼岩泉町の流木が何の木で、なぜあれほど大量にふもとのコミュニティのようなところへ流れていったのか?もし伐採した木が流されたのだとしたら、普段からこの種の木の整理はちゃんとやっておくとか流されないようなところに置いておくということも必要かもしれないですよね。埼玉県の山奥の場合も伐採された木がそのまま横にされています。

▼だらだらと失礼しました。

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むささびへの伝言