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335号 2015/12/27
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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
2015年も終わりですね。ことしは暖冬だそうで・・・。そのせいか埼玉県ではすでに蝋梅が咲いているところがありました。お願いだから豪雪だけは勘弁してつかあさい!
目次

1)女王のクリスマス・メッセージ
2)動物の進化は案外早い
3)「ハイコン文化」と「ローコン文化」
4)「安田純平氏の行方不明」報道への疑問
5)クエーカー教徒の平和主義
6)どうでも英和辞書
7)むささびの鳴き声

1)女王のクリスマス・メッセージ
12月25日のクリスマスの日、エリザベス女王による恒例のクリスマス・メッセージが伝えられました。BBCによると、クリスマス・メッセージは女王自身が書くもので、極めて希なものの一つなのだそうです。また当たり前だと思うけれど、BBCの解説によると、女王のメッセージには常にキリスト教徒としての信仰の重要性に触れた部分があるのだそうです。
  • 2000年:「私にとって、キリストの教えと神のみ前における私個人の責任が自分の生き方の基本になっています」(For me the teachings of Christ, and my own personal accountability before God, provide a framework in which I try to lead my life)
  • 2002年:「いい時も悪い時も、私は自分自身を導く信仰に拠って生きています」(I rely on my own faith to guide me through the good times and the bad)
  • 2014年:「イエス・キリストの人生は私の人生におけるインスピレーションであり、錨(いかり)でもあります」(the life of Jesus Christ is an inspiration and an anchor in my life)
そして、いろいろあった今年(2015年)を振り返る言葉は次のようになっている。
  • ことしは世界が暗黒のときに直面せざるを得なかったことは事実です。しかし聖書のヨハネの福音書には大いなる希望を示す一節が含まれており、これがクリスマス・キャロルの集会でしばしば読まれます。すなわち『光は暗闇の中に輝いている。暗闇はこれに打ち勝たなかった』という言葉であります。
    "It is true that the world has had to confront moments of darkness this year, but the Gospel of John contains a verse of great hope, often read at Christmas carol services: 'The light shines in the darkness, and the darkness has not overcome it.'"
英国を含めたヨーロッパにとって今年の最大の出来事は、シリアなどからの「難民・移民」であり、ISISによるテロであるわけですが、女王は「キリストのメッセージは報復や暴力ではなく、我々はお互いに愛し合うべきだというものだった」(Christ's unchanging message was not one of revenge or violence but simply that we should love one another)と言っています。

▼エリザベス女王は来年4月で90才なのだそうです。ここをクリックすると彼女のメッセージを動画で見ることができ、ここをクリックすると文字で読むことができます。動画は9分強という長さです。
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2)動物の進化は案外早い

The Conversationというサイトは、英国の大学で教えている先生方が集まって、それぞれの専門分野について普通の人にも分かりやすく解説する場を提供しています。どちらかというと地方大学の先生が多いようですが、12月15日付のサイトでは北イングランドのハル大学の医療・生物工学研究グループ(Medical and Biological Engineering Research Group)のヒューゴ・デューテル(Hugo Dutel)研究員による
という短いエッセイを寄稿しています。例えば鯨。昔は陸上に棲む哺乳類であったものが、100万年を経て現在のようになったということは古生物学者の研究で明らかになっているらしい。しかしそれを人間は自分の目で確かめることはできない。あまりにも「進化」に時間がかかりすぎる。


ただバクテリアとか寄生虫のような微生物がやたらに早く「進化」することは、人間が新薬を開発すると間もなくそれに対しても抵抗力を持つバクテリアが現れたりすることで明らかです。しかしそれは微生物の世界の話。もう少し大きな生き物で早く進化するものはないのか?デューテル研究員によると、ガラパゴス諸島のダフニ・メジャー(Daphne Major)という島に棲息するフィンチ(finch)という鳥に高速進化の例が見られるのだそうです。この島は38年前の1977年に大干ばつを経験、そこに生えていた植物の小さな実が消えてしまい、その実を食べて生きていた陸上フィンチ(ground finch)が殆ど絶滅してしまった。ただ科学者たちの観察によると、同じフィンチでも大型のものは大干ばつを生き延びることができたことが分かっている。なぜか?大型フィンチは嘴も大きくてパワーがあるので、大きくて固い植物の実を割って食べることができたから。大干ばつから約40年、ダフニ・メジャー島では大きなフィンチが生き残り、繁殖しているのだそうです。わずか40年における「進化」ですね。

では小さなフィンチは絶滅したのかというと必ずしもそうではない。1983年にこの島で大雨が降り、おかげでかつてたくさん生えていた小さな木の実が地面に散らばるようになった。それに比例して小さなフィンチの復活現象も見られるようになっている。いずれにしても自然環境の変化が動物の世界の進化に影響を与えている例であるといえる。


次に学名を "Anolis carolinensis" 普通にはグリーンアノールと呼ばれているトカゲ。米国フロリダ州にはこの種のトカゲが棲んでいる小さな島がたくさんある。科学者たちが外来種で侵食力の強いグリーンアノールをそれらの島に放して観察したところ、土着のトカゲは侵入者に押されて自らの生息地を離れて森の奥へと移住、ついには地上ではなくて木の上で暮らすようになってしまった。

木の上で生活するようになって以来、このトカゲは足先のパッド(手のひらのような部分)が大きくなり、ウロコが以前よりも粘着力が強くなった。いずれも木に登り、そこで暮らすために必要な身体条件ですね。そのように変化に要した時間はざっと15年、20世代であったそうです。確かに早い!


次に南京虫(bed bug)。デューテル研究員によると、ここ20年ほどの間に南京虫の外骨格がかつてよりも頑丈になっているとのことで、それは人間の生活が都市化すると同時にさまざまな殺虫剤が開発されて南京虫の生命を脅かすようになった。それらの「害毒」から身を守るための「進化」が丈夫な骨格作りであったというわけです。

チャールズ・ダーウインは1859年に出版した『種の起源』(On the Origin of Species)の中で、進化という現象はとても一人の人間の一生の間で起こるようなものではないと言っている。ヒューゴ・デューテルは、確かにダーウィンの頃の科学の発達程度からすれば、彼の主張はそれなりに正しかったに違いないけれど、最近の実験や観察では動物の世界の進化は人間が考えているよりもはるかに速度が早いことが分かってきた・・・というわけで
  • 生命は決して同じところに留まっているということはない(ようだ)。
    Life, it seems, never stays still.
というのがデューテルの結論であります。
▼南京虫といいトカゲといい、自分が好きで「進化」したわけではない。生きていくために周囲の環境にあわせて変わらざるを得なかった。はっきり言って人間も同じ。物理的な生存・・・これがすべて。「進化」と呼ぼうが「退化」と呼ぼうが変わるときは変わるってこと。
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3)「ハイコン文化」と「ローコン文化」

『句集 心葉』という本に出ている、ジャーナリストの前澤猛さんが書いた、俳句についてのエッセイを読んでいたら「ロー・コンテクスト」と「ハイ・コンテクスト」という言葉が出ていました。前澤さんは新聞記事と俳句の違いについて書いており、新聞記事は「百人が百人、まったく同じ内容を把握するような表現と文脈」の世界であり、これを称して「ロー・コンテクスト」と言っている。それに対して俳句は「省略と含意からなる別世界」であり、書いた人の意図と読む人の捉え方が全く違うことが当たり前の世界である、と。それを「ハイ・コンテクスト」の世界と呼ぶのだそうであります。

"context" はむささびが苦手とする(使えない)英単語の一つであります。英和辞書を見ると「前後関係」、「文脈」、「状況」、「環境」などという日本語が出ており、学者の話を聞いているとしばしば「安保問題をそういう文脈で考えるのは・・・」というような言葉に出くわす。「文脈で考える」って何のことか、と気になってはいたけれど深く追及することなしにいたわけ。でも上記の前澤さんの文章に出くわして、一応分かった気になってしまった。つまりコンテクストというのは「あえて文字にしない意味合い」のようなもので、「ハイ・コンテクスト」(以下「ハイコン」)はその種の意味合いの部分が大きくて濃密なのに対して、「ロー・コンテクスト」(ローコン)はそれが小さいということ、つまり「読んで字の如く」とか「文字通り」の世界ということですね。確かにローコンの典型である新聞記事は、誰が読んでも同じことが伝わるものでないと困りますよね。でも俳句は違う。

むささびが「ロー・コンテクスト」と「ハイ・コンテクスト」という言葉に接するのはこれが初めてであったのですが、インターネットを見ると、国際文化比較などの分野では大いに話題になることなのですね。あるサイトはハイコン文化とローコン文化を対比して次のように描いている。

ハイコン文化 ローコン文化
・同質的(homogeneous)
・集団的
「変わっていること」は歓迎されない
・人間(people)中心
・対立を避けたがる
・自己抑制がきく
・リスクを嫌う
・異質的(heterogenous)
・個人中心
・「異なる」ことを奨励する
・活発に問題解決を図る
・対立(conflict)は奨励される
・行動はルールにより規制される
・リスクは歓迎される

The Articulate CEOというブログに出ている「ハイコン文化とローコン文化の比較」(Cultural Differences - High Context versus Low Context)というエッセイによると、ローコン文化の代表として英国人・米国人・ドイツ人・スカンジナビア人が挙げられ、ハイコン文化としては日本人・フランス人・アラブ人が挙げられている。ローコンとハイコンという点から見ると、これらの人びとが交わるについては結構面倒なことになりがちである(problematic)とのことであります。例えば日本人から見ると、欧米人は「率直すぎて無礼」(offensively blunt)だと思えるし、欧米人が日本人に抱く印象は「秘密主義的」(secretive)にして「回りくどい」(devious)となる。


ローコン文化!?

ハイコンのフランス人が、ローコンの見本のようなドイツ人と付き合っていて腹が立つのは、ドイツ人は当たり前のことまで言葉で説明したがるので、馬鹿にされたような気分になること。「そんなこと言われなくても分かってるよ、このお!」というわけです。反対にドイツ人の従業員がフランス人の上役に戸惑うのは、言葉で指示してくれない(providing no direction)ことまで要求されること。フランス人は「そんなことまでいちいち言わなくてもわかるだろ?」と思うし、ドイツ人は「言ってくんねぇんだもんな」と腹を立てるというわけであります。

このエッセイの筆者によると、地球が狭くなっていろいろな文化的背景を有した人びとが接する「多様性」の時代にはハイコン的な「言わなくても分かるだろ?」は通用しない反面、ローコンによる極端な率直主義が相手を傷つけ余計なトラブルのもとになる危険性もある。さらにいまのように異文化交流が盛んな時代には、ローコンやハイコンの地理的な分布などあまりあてにならなくなっているとも言える。

要するに日本人はみんな「ハイコン人間」だなどと思わない方がいいし、アメリカ人だからと言って誰もが「言外の意味合い」など理解できないなどと考えない方がいいってことのようであります。

▼ハイコン文化圏の中にアラブが入っていることは考えませんでしたね。彼らによれば「いまさら言うまでもない」ことも分からないのが欧米人であり、アラブにおいて植民地主義を展開した欧米の人たちはアラブのハイコン文化を「遅れた部族主義文化」のように見下してしまったということですかね。ハイコン、ローコンの区分けの中に中国が入っていませんね。物質万能・合理主義という意味では「ローコン」のように見えるし、信じられないような古い大家族主義などハイコン以外に支えようがないとも見えるし・・・。

▼最初に書いたジャーナリストの前澤猛さんの説明ですが、確かに俳句はハイコン文化の極致かもしれないですね。俳句は文字が描く絵画の世界のような部分がある。「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句、むささびが読んで「いいなぁ」と思い、別の人が読んで「感動した!」と思う。でも二人は全く別の風景画を思い描いていることだってあり得る。ましてや作った芭蕉がどのような景色を見て、何を感じたのかというのは全く別の話ですよね。

▼でもローコン文化の英米人に、俳句というハイコン文化の極致が分かるのかなぁ。「古池や・・・」という俳句の英訳にはいろいろあるんですね。


古池や 蛙飛び込む 水の音
ドナル
The ancient pond
A frog leaps in
The sound of the water.
ラフカディオ・ハーン
Old pond
Frogs jumped in
Sound of water.
正岡子規
The old mere!
A frog jumping in
The sound of water

▼まず「古池」の「古い」をハーンも子規も "old" を使っているのに対してキーンは "ancient" ときましたね。「時」を感じさせる。やるなぁ!次に「池」ですが、子規はなぜか "mere" という言葉を使っている。これは英語の詩などで使われる言葉なのだそうですね。「湖」という意味もあるらしい。ここはやっぱ "pond" と素直に行きましょう、素直に。「蛙」の部分をハーンは複数にしている。何匹も池に飛び込んだってこと!? で、「飛び込む」です。キーンの "leaps" はニクイな。"jump" というのはどうも・・・響きがまずいんだ、響きが。「ドボーン!」なんだよね。

▼という悪ふざけはともかく、「ハイコン文化」がいいのは(むささびによると)俳句の世界だけの話。日本の普通の世界でまかり通っているかに思える「言わなくても分かるよね」という態度は全く困りものです。「以心伝心」、「あうんの呼吸」なんてインチキに決まっている。人間同士は本質的に異邦人同士であり、お互いの「理解」は基本的には言葉によるべきであります。


▼最初に触れた『心葉』という本は、ジャーナリストの前澤猛さんの奥さん(故人)が詠んだ俳句を集めた本なのですが、その中に「頭より高き杖つき冬遍路」という句がある。むささびはこれが気に入ってしまったわけです。冬の日にお遍路さんが自分の背丈よりも高い杖をつきながら歩いている・・・それを作者が見ているのですよね。この句などは「文字で絵を描く」見本のような作品だと思いません?むささびはなぜこの句に惹かれたのでしょうか?それを言葉で説明するのは難しいのでありますよ。淡いモノクロの世界が醸し出す静けさ、ですかね。無理やり英訳すると "A pilgrim is walking on a chilly winter day. His stick seems taller than himself..." かな?これじゃ、雰囲気ぶち壊しです。申し訳ない。
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4)「安田純平氏の行方不明」報道への疑問


フリージャーナリストの安田純平という人がシリアで行方不明になっているというニュースを聴いたのは(むささびの記憶が正しければ)12月23日の夜のラジオ番組だった。むささびは知らなかったけれど、中東における戦場の取材ではよく知られたジャーナリストなのですね。翌日のネットを見たら同じニュースが新聞社のサイトで伝えられていました。
という具合です。

確かに「国境なき記者団」(RSF:Reporters Sans Frontieres)のサイトには12月22日付で "JAPANESE JOURNALIST IN DANGER, RSF CALLS FOR HIS IMMEDIATE RELEASE"(日本の記者が危険な状態にある。RSFは彼の即時解放を要求する)という記事が掲載されています。それによると
  • 安田氏は7月初旬にシリア入りしたが、その数時間後にアルナスラ・フロント(Al-Nusra Front)という武装グループが支配しているエリアで武装した集団によって誘拐された。
    Yasuda was kidnapped by an armed group in an area controlled by the Al-Nusra Front a few hours after crossing the border into Syria in early July.
となっている。この記事は安田さんが「誘拐された」(Yasuda was kidnapped)とずいぶん断定的に書いています。「~と思われる」とか「~のようである」という書き方ではない。


RSFはまた日本政府に対して、安田さん解放に向けて「早急な行動をとる」(to act quickly)を求めています。彼らによると、ジュネーブ条約やジャーナリストの安全確保に関する国連安保理決議1738号によって、日本政府にはジャーナリストの安全のために積極的な行動をとる責任があると主張しています。

安田さんの行方不明については、むささびが調べた範囲では、7月13日付のJapan Times のサイト、7月16日付のアメリカのCNNのサイトにそれぞれ掲載されています。当然ながら両方とも英文です。Japan Timesによると、7月10日に岸田外務大臣が行った会見で、記者たちが安田氏の件について質問しており、大臣は「日本政府は安田氏の状況についても居所についても何らの情報も受け取っていない」(the government had not received any information regarding his condition or whereabouts)と答えたと書いている。そして外務省幹部(a senior official)は「安田氏がシリアへ入国したことも確認されていない」と語っている。

安田さんは、自身のツイッターの中で自己紹介として
  • フリージャーナリストをやっています。一年ほど、イラクの基地建設現場で料理人をしたりなんだりしつつ、イラク戦争関連を取材してきました。2012年はシリアをうろつき、2013年はイラクで料理人仲間と遊んでました。
と書いています。また彼が戦場取材を続けることについては
  • 戦争などは特にそうだが、現場で見られるものは限られていて、現場に行けば全てが分かるなんて思って行く人はいないだろう。特に内戦などは外部の干渉があり、国単位の大きな動きもある。しかしそこで生きている人にはそれぞれの事情があって、そういうものを少しでも知りたくて私は現場に行っている。(6月18日)
  • 現場を否定するということは個々の人間の存在を否定するに等しいと思う。せっせと取材の邪魔をする安倍政権とかその支持者とか、現場なんか見なくてもネット見てれば全て分かるとか言っているネトウヨとかネトサヨ陰謀論者とか、根本的な問題としてそのあたりが共通してあるのだと思って見ている。(6月20日)
と記している。またこの種の事件が起こると必ず言われる「自己責任」については
  • 戦場に勝手に行ったのだから自己責任、と言うからにはパスポート没収とか家族や職場に嫌がらせしたりとかで行かせないようにする日本政府を「自己責任なのだから口や手を出すな」と徹底批判しないといかん。(4月3日)
と言っている。つまりシリアのような「危険な場所」への渡航については「国民には行かせない」というのが日本政府のやり方である、と。それに対して安田さんは怒っている。

▼Japan TimesやCNNが安田氏のことを報道していた7月中旬、日本のテレビや日本語の新聞はどのように報道していたのでしょうか?むささびの記憶に全くないのであります。もしむささびの記憶が正しいとして、なぜ日本のメディアに関する限り、Japan Times以外は、7月の時点では何も伝えていなかったのでしょうか?記者が質問をし、岸田外相が会見で発言までしているのに、です。「そのうちひょっこり出てくるかも」と考えていた?それにしてもどの新聞もどのテレビも報道しなかったというのは不自然な気がして仕方ない。ひょっとするとしっかり報道していたのにむささびがそれに気がつかなかっただけってこと?!

▼安田さんは戦場取材を続ける理由について「そこで生きている人にはそれぞれの事情があって、そういうものを少しでも知りたくて私は現場に行っている」と言っている。同じようなことを英国のロバート・フィスクという記者が言っています。フィスクは1982年にベイルート南郊にあったパレスチナ難民キャンプで2000人以上ものパレスチナ住民が虐殺されるという事件を取材したのですが、彼が報道したのは殺されたパレスチナ人のことのみであり、虐殺行為を見て見ぬふりをしたイスラエル側の事情については全く報道しなかった。フィスクによると、ジャーナリズムの中立性や客観性は大切なことではあるが、「それは最も苦しんでいる人々の側に立ったうえでのことである」と言っている。つまり「右も左も平等に報道する」という意味での "50/50 journalism"(五分五分主義)は彼のスタイルではないのだそうです(むささびジャーナル263号)。

▼それから危険な国へ渡航するについての「自己責任」と「国境なき記者団」が主張する、政府によるジャーナリストの安全確保責任の関係ですが、日本の外務省なら「政府の責任」を盾にとって、ジャーナリストに対して危険な場所へは渡航しないように命令する権利があるなどと言いかねない。大の大人が危険を承知で行くのだから、その人の「権利と責任」に任されるのは常識ってものですよね。そして政府は政府で「できる限り」のことをすればいいに決まっている。
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5)クエーカー教徒の平和主義

BBCのラジオに "Moral Maze" という番組があります。「道徳の迷路」というわけですが、さまざまな問題を人間のモラルという視点から検討するディスカッション番組です。一回の長さは45分、その回のテーマに適切なゲストを呼んでいろいろと質問しながらゲストの考えていることを示そうというやり方です。「モラル」を語る番組だけに、「質問」というよりも「詰問」とか「激論」になったりすることもしばしばです。それがこの番組の売り物なのかもしれない。

最近の"Moral Maze"が取り上げたのは "Just War and Syria"(正義の戦争とシリア)というテーマです。キャメロン政府が行っているISISに対する空爆を人間のモラルという観点から検討するものです。ゲストは3人、質問・詰問担当のパネリストが4人+司会者という構成です。むささびが取り上げるのは、ゲスト3人のうちの一人である英国のクエーカー教徒とパネリストとのやり取りです。英国のクエーカーたちはさまざまな社会問題についてかなり積極的な発言をすることで知られています。ここに登場するのは "Quaker Peace & Social Witness"(平和と社会を考えるクエーカー)という団体のヘレン・ドゥルワリー(Helen Drewery)代表です。以下、彼女とパネリストたちの「会話」をかいつまんで紹介します。

Panelist:あなたのような平和主義者(pacifist)はISISの問題に対してどのように対処するのか?
Drewery:まずはっきりしていることは、暴力は良くない(violence is wrong)ということであり、ISISの問題についても暴力(武力行使)によらない方法を探ることだ。
Q:もう少し具体的に言ってほしい。
A:爆撃はISISの活動に参加しようとする人の数を増やしこそすれ減らすことには繋がらない。ISISに参加しようとする人間の数を減らしたいのであれば、そのような人びとがいま抱える問題そのものにしっかり取り組むことだ。英国では多人種同士のつながりを促進したりするような変革が必要なのだ。いわゆるイスラム恐怖症を掻き立てたりするのは誤りだ。
Q:あなたはISISに参加するような人びとが抱える問題の解決に取り組むことが大切だというけれど、ISISは「殺し屋集団」のようなもので、「問題解決」もなにもないのではないか?話し合うような相手ではもちろんない。そのような集団を相手に平和主義者はどうしようとしているのか?
A:彼らも自分たちと同じ人間であることを忘れないようにしたいと思っている。彼らの使う過激な言葉(レトリック)に惑わされて、彼らから遠ざかってはならないということだ。
Q:「ISISも人間だ」と認められるあなたの能力は結構だが、そのような考え方を広めるということは、彼らによって殺害される人びとが増えるということだ。あなたのような態度こそ不道徳(immoral)だと思うが・・・。
A:だからと言って爆撃すればことは解決するというのか。時間がかかるかもしれないが、私たちのようなやり方によって、ISISやその同調者と私たちとの間の橋渡しをすることが大切だ。
Q:彼らは、我々が普通に考えるような不満や不平(grievances)を持っているわけではない。ISISのような集団が相手では、「橋渡し」とは彼らに降伏・服従しろと言っているのと同じなのですよ。彼らの関心事は、自分たちの気に入らない人間を殺すことと領土の拡張だけなのだから。
A:私はそのようには思わない。我々はいずれにしても最後には非暴力による問題解決の方法を見つけなければならなくなるのだ。爆撃のようなやり方は問題の解決にはならない。
Q:あなたがISISのような集団を相手にも「人間性」を認めるべきだなどと言っていい気持ちになっている間にも、あなた以外の人びとが殺人者たちと戦い、命を落としている。そのおかげであなたは自由で平和な生活を送ることができている。自分を偽善的だとは思わないのか
A:アフガニスタン、イラク、リビアにおける暴力的な状況のおかげで、私たちは平和的にも自由にも生きることができないでいるではないか。しかもそれらの暴力は我々(欧米)が引き起こしてきたともいえるのだ。いまこの国(英国)がやろうとしていることは、事態を悪化させこそすれ、改善するようなものではない。
Q:あなたは一方で「暴力は良くない」(violence is wrong)という「道徳論」を語り、もう一方では「爆撃ではことが解決しない」(bombing doesn't solve anything)という「現実論」(プログマティズム)を語っている。どちらが本当のあなたの姿勢なのか?
A:道徳と現実は切り離しては語れない。暴力は人を傷つけ、怒りと憎しみを生む。それらがさらに次なる暴力を生む。暴力と憎しみはお互いに繋がり合って人間に危害を及ぼす。それを止めようとすれば道徳論と現実論を切り離すわけにいかない。
Q:英国は第二次大戦でナチと戦った。「暴力」なしにどうやってナチと戦えたと思うのか?
A:第二次大戦の種は第一次大戦を終わらせたベルサイユ条約が調印された時点で蒔かれていたというのが、歴史学者の大方の意見だ。敗戦国ドイツに苛酷な負担をしいたことが後のナチズム台頭に繋がった。つまりもっと早く、対処していればヒットラーの台頭もなかったということだ。
Q:いずれにしても1939年の時点でヒットラーと武力で戦うことを決めていなければ、今頃英国はナチによって支配されていたとは思わないか。
A:私はあなたの言う年を時代の転換点(moment of history)として受け取ろうとは思わない。平和のための努力はそれよりも早い時点で行われなければならなかったのに、それをしなかったことがヒットラーの台頭につながったということだ。戦争の種を早い時期に摘み取ってしまえば、平和的な手段で物事を解決することができるということだ。揉め事を解決するのに平和的な手段(tools of peace)が戦争のそれ(tools of war)より弱いとは思わない。平和的なやり方の方が多少時間がかかるだけだ。
Q:クエーカーのあなたは、キリスト教徒がISISに虐殺されているかもしれないと心配になることはあるか?
A:キリスト教徒であろうとなかろうと、戦争によって誰かが誰かに虐殺されるということは心配に決まっている。
Q:軍隊における「利他主義」(altruism)のことを考えたことはあるか?自分以外の人やもの(国も含めて)のために自分の命を投げ出すという行為のことだ。戦場における兵士の行為は利他主義の見本のようなものだと思うが、そのような行為のことを平和主義者であるあなたはどのように評価するか?
A:自分が信ずるもののために命まで投げ出すということ自体は称賛に値することだと思う。しかし戦場であれ、どこであれ、自分が信じてもいない人やもののために命を投げ出す人もいるし、利他主義は必ずしも軍人のものだけではない。また大きな戦争に参加した平和主義者の兵士たちの中には武器を持たずに戦場へ赴いた者もいる。私はその平和主義者たちは称賛されるべきだと思っている。

ざっとこんな感じです。むささびは、このやりとりの中で最も大事なポイントは「ISISも自分たちと同じ人間だ」というヘレン・ドゥルワリーの言葉をどのように考えるべきなのかということだと思います。パネリストはこれを否定、「そのような考え方が犠牲者を生んでいる」と言っている。

またディスカッションのキーワードは "pacifism"(平和主義)と "just war"(正義の戦争)だと思います。ここではヘレン・ドゥルワリーは「平和主義者」(pacifist)と呼ばれているのですが、むささびの見るところによると、日本で言う「平和主義」(戦争は嫌い)とはちょっとニュアンスが異なるかもしれない。あちらではかなり道徳的・宗教的な色彩を持っていると思います。戦争は自衛のためでも「悪いこと」であるという意識です。良心的兵役拒否なども「平和主義」の表れで、「平和主義者」は変人扱いされることもある。だから反戦デモに参加しながらも "I'm not a pacifist" という人が結構いる。むささびジャーナル333号で紹介したバーバラ・リーというアメリカの下院議員は、ワシントンでただ一人アフガニスタン爆撃に反対した政治家ですが、その彼女も「自分はpacifistではない」と言っている。作家のジョージ・オーウェルによると
  • 平和主義が客観的に言ってファシスト支持の発想であることは誰でも知っている常識だ。
    Pacifism is objectively pro-fascist. This is elementary common sense.
だそうです。これは1942年の発言でその頃の英国はドイツと日本を相手に戦争をしている真っ最中だった。「平和主義は敵を利する」という考えですね。一方、アルバート・アインシュタインは、熱心な平和主義者であったと見えて
  • 私は単なる平和主義者ではない。戦闘的平和主義者だ。
    I am not only a pacifist but a militant pacifist.
と言っている。彼によると「皆が戦争に行くことを拒否しない限り戦争は終わらない」(Nothing will end war unless the people themselves refuse to go to war)とのことであります。

もう一つのキーワードである「正義の戦争」(just war)について。英国では、「戦争を好むわけではないけれど、相手によっては最後の手段、自衛の手段としての戦争まで否定する気はない」という考え方が一般的であると(むささびは)見ている。ヒットラーのドイツや日本を相手にした戦争は「正義の戦争」だったし、キャメロンらが行っているISIS爆撃もそれに当たるのだということです。


ところで "just war"(正義の戦争)については、紀元前の共和政ローマ期の哲学者、キケロの言葉とされるものに
  • 正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい。
    An unjust peace is better than a just war.
というのがある。この言葉がどういう状況下で言われたものなのか分からないのですが、非常に含蓄が深いと思いません?「正義の戦争」の中で人がバタバタ死んでいくのと、汚職だらけの独裁政府ではあるけれど、少なくとも人は死んではいないというのではどちらがいいと思います?たとえ人命が犠牲になっても「正義の戦い」の方が望ましい・・・ですか?

▼BBCのディスカッションを聴いていてむささびが思ったのは、自分の立ち位置として、このクエーカーの言っていることの方が納得が行くということでありました。特に納得がいったのは、「戦争の芽は早いうちに摘み取ること」というヘレン・ドゥルワリーの言葉だった。ナチズムの台頭は第一次世界大戦における戦勝国側の敗戦国・ドイツの扱いにあったというわけですが、それに対して、パネリストはそのような過去における「べきだった論」をやってみても仕方ないという趣旨の反論をしていた。

▼しかしドゥルワリーが言っているのは必ずしも結果論ではない。9・11テロが起こったときに、日本も含めた「欧米」は、「なぜ」それが起こったのかを問うことなくヒステリックにアフガニスタンに爆弾の雨を降らせた。ニューヨークのテロ事件の際に「なぜ?」を問うべきだと言ったジャーナリストはいたし、アフガニスタンへの軍事介入は間違いで、ビンラディンを捉えたいのなら警察力で十分と主張した学者もいた。イラク、リビア、シリアへの軍事介入にも反対意見があった。どれをとっても「後悔先に立たず」という話ではない。
▼興味深いのはミャンマーのアウン・サン・スーチーが、「平和」についてクエーカーのヘレン・ドゥルワリーが言っているのとほぼ同じことを言っていることです。
  • 平和とは単に暴力や戦争を終わらせることだけを意味するものではない。平和を脅かすような要因(差別・不平等・貧困)をすべて除去することを意味する。
    So peace does not mean just putting an end to violence or to war, but to all other factors that threaten peace, such as discrimination, such as inequality, poverty.
▼彼女によると、これは「ミャンマー風の平和の定義」(Burmese definition of peace)なのだそうですが、要するに戦争や内戦の要因になるようなことを普段から除去しておこうということですよね。
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6) どうでも英和辞書
  A-Zの総合索引はこちら 
auction:オークション

早いものですね、あのサッチャーさんが亡くなって2年半になるんですね・・・と思わせるような記事が英国のメディアに出ていました。彼女の遺品の競売がロンドンのオークションハウス(クリスティー)で開かれ、予想以上の売上であったというものです。12月15日付のBBCのサイトに競売されたものと売れた値段がいくつか出ています。
  • 首相専用の赤い書類入れ(dispatch box):24万2500ポンド(約4400万円)
  • ウェディングドレス:2万5000ポンド(450万円)
  • レーガン大統領から贈られた鷹の陶磁器:26万6500ポンド(約4800万円)
  • 真珠のネックレス:6万2500ポンド(1120万円)
  • ハンドバッグ:4万7500ポンド(855万円)
という具合です。ちなみにオークションの総売上は450万ポンド(8億1000万円)であったそうです。24万2500ポンドで落札された赤い書類入れですが、首相と財務相が持っていて王室の紋章が入っている。英和辞書などでは「送達箱」などとなっている。要するに政府の重要書類が入った箱のことです。財務相がこれを持って首相官邸に入るシーンがしょっちゅうテレビに登場、カメラに向かってこのボックスを掲げる。「この中に予算案が入っているんだ!」と伝えているわけです。

このオークションについては12月19日付のThe Economistも伝えているのですが、それによると、このオークションを申し出たのは娘のキャロルさんだった。彼女はサッチャーさんが27才のときに生んだ男女の双子の一人であるわけですが、男兄弟のマーク・サッチャーはこれには大反対だったのだそうです。彼としては、母親マーガレット・サッチャーの遺品はすべてケンブリッジ大学のチャーチル・コレッジにあるアーカイブに寄付されるべきだと考えていたので、オークション開催にはかんかんに怒っているらしい。

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7) むささびの鳴き声
▼3番目に掲載した「ロー・コンテクスト文化」と「ハイ・コンテクスト文化」についてですが、いまから半世紀も前、初めてアメリカへ行って2年ほど暮らしたことがある。そのとき感じたのですが、あちらでは私は"Japanese"かもしれないけれど「ガイジン」(foreigner)ではないということ。日本語の「外人」には "outsider" というニュアンスが伴いますよね。アメリカ人にはそれが希薄であるということです。あちらにはGermanもいればEnglishもFrenchもいる。MexicanもいればChineseもいるけれど"outsider"はいない。

▼日本語のガイジンという言葉には「自分たち(日本人)のことは分からない人たち」というニュアンスもある。日本人の心理には哀しいほど「自分たちのことはあいつらには分からない」という想いが染み込んでしまっている部分があると思いませんか?そのようなことは英国人にもあるのですが、根本の部分で英国人は「自分たちの言っていることは誰にでも通用する」と思い、日本人は「誰にも通じない」と思い込んでしまいがちであるということです。しかし、それでは日本人同士が分かりあっているかというと実際にはそれほどでもない。「人間は言葉を使わない限り分かり合うことはない」ということはローコン文化人の方が分かっている。

▼5番目に掲載した『クエーカー教徒の平和主義』の中で、このクエーカー教徒が言っている「ISISも人間だ」という言葉をどのように受け取るべきなのかは、誰にとっても重要なポイントであると思いません?パリのテロ以来、「ISISは人間ではない」という「常識」が欧米を覆っているように見えるけれど、欧米人にとって苦しいのは、「XXは人間ではない」と断定的に語ること自体が自由とか理性とかいう彼らの伝統に真っ向から反対することになるということです。その意味では、クエーカーの方が欧米の伝統に忠実であるといえるかもしれない。

▼クエーカーのいう「平和主義」と日本国憲法で謳われている「平和主義」は戦争放棄の理念という意味では同じことだと(むささびは)思うけれど、戦後70年の今年(2015年)の夏、メディアの間でさんざ語られた「戦争はもうこりごり」論とは違うように思えます。むささびの印象では、「こりごり」論はあの戦争の悲惨さは語っても、「いま戦争の種が蒔かれつつあるかもしれない」という話はあまり語られなかったと思うわけです。前回の「むささびの鳴き声」で触れた「戦争被害受忍論」のような発想は、アウン・サン・スーチーの言う「平和を脅かすような要因」であることは間違いない。

▼行方不明の日本人ジャーナリストを誘拐したのではないかとされるシリアのアル・ヌスラ・フロントという組織は、あのアルカイダのシリア支部ようなもので、「反アサド政府」であると同時に「反ISIS」でもある。安倍さんらのいわゆる「積極的平和主義」というのは、ISISのような戦争の芽になりそうなものを「積極的に」潰していくことで「平和」を達成しようという理屈ですよね。おそらく英米仏がやっている「有志国」連合のISIS爆撃に自衛隊を参加させることで、日本を「一人前の国」にしたいというのが、当面の安倍さんの念願である、と。その安倍さんらにとって、ISISを敵視するアル・ヌスラ・フロントは「敵の敵=お友だち」のはず。その「お友だち」が日本人を誘拐だなんて・・・。BBCのラジオを聴いていたら、キャメロンやオバマが「地上軍として訓練しよう」としているのが、このアルカイダの親戚なのだそうです。安倍さんらは、誘拐した組織よりも、誘拐されたジャーナリストを恨んでいるのでは?「有志国」のお友だちを誘拐犯にしてしまうなんて・・・というわけです。

▼2015年も終わりですね。1年間お付き合いをいただき、どうもありがとうございました。お元気で!
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むささびへの伝言