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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
musasabi journal
第141号 2008年7月20日

   

野茂投手が現役を引退すると発表しましたが、引退発表してこれくらい「祝福」された人もいないのでは?39歳なんですね。それでは引退しても不思議でもなんでもない。

目次

1) 世界の都市比べ


Economist Intelligence Unit (EIU)の調査(2007年)によると、世界でイチバン生活費が高い都市はノルウェーのオスロー、イチバン安いのはイランのテヘランだそうです。この調査は世界90カ国の130都市を調べたもので、食品・化粧品・衣料などの値段から交通費や電気料金などの生活費など160項目におよぶ費用を比較したものだそうで、アメリカのニューヨークを100として計算すると、トップ10は下記のとおりです。

オスロ 
148
パリ   141
ロンドン  139
コペンハーゲン  137
フランクフルト  128
レイキャビク  128
ヘルシンキ  125
東京  125
チューリッヒ  122
ウィーン 119

東京以外はいずれもヨーロッパの都市ですが、これはユーロ高ということも原因だそうであります。このリストにはアメリカの都市が一つもないのですね。先日、ロンドン暮らしを終えて帰国した人に話を聞いたのですが、ロンドンは何をするにも東京の2倍のお金が要ると思っていた方がいいとのことでありました。ちなみにロンドンの地下鉄の初乗り料金は4ポンドだそうです。生活感覚からすると1ポンドは1ドル、100円という感じらしい。

同じくEIUの「暮らしやすい都市」ランキングによると、ナンバーワンはカナダのバンクーバー、最悪はハラレ(ジンバブエ)となっています。「暮らしやすさ」の要素しては、安全・ヘルスケア・文化活動と環境・教育施設・インフラ(道路、電気など)を比較したもので、トップ10は下記のとおりです。スコアは100点満点を基準にしています。 のですが、東京の地下鉄(初乗り160円)で400円乗るとかなりの距離行きますよね。

バンクーバー カナダ 98・8
メルボルン オーストラリア 98・2
ウィーン オーストリア 97・9
パース オーストラリア 97・3
トロント カナダ 97・0
ヘルシンキ フィンランド 96・9
アデレード オーストラリア 96・6
カルガリー カナダ 96・6
ジュネーブ スイス 96・1
シドニー オーストラリア 96・1
チューリッヒ スイス 96・1


一方、アメリカのビジネス・コンサルタント会社のMercerもいろいろと都市の生活比較を行っていますが、この会社の「暮らしの質(Quality of Living)」比較によると、トップ50都市の殆どがチューリッヒ、ジュネーブ、バンクーバー、ウィーンなどの欧米(特にヨーロッパ)の都市ですが、例外的に日本から東京(35)、横浜(38)、神戸(40)、大阪(42)などが入Quality of Livingを「暮らしの質」と訳したのは私なので、これが正しい翻訳であるかどうかの自信はないのですが、MercerによるとQuality of Livingは、外国人のビジネスマンなどが暮らす際にhardship allowance(特別手当)などを必要とするかどうかという目安になるのだそうです。

スコアが高い都市ほど、「安心・安定」(safe and stable)ということになるのですが、いわゆる都会的な楽しみ(娯楽・芸術など)とは別の基準になる。だからパリ、ロンドン、ニューヨークなどはここに入っていないわけです。同じような言葉にQuality of Lifeというのがあるけれど、これには個人的な好みが入ってくるので、客観的なランクにするのは不可能なのだそうです。

この会社では「身辺の安全」(personal safety)ランキングもやっている。「政情の安定性」「犯罪」「法秩序」「対外関係」などの観点からスコアを算出するもので、安全度のトップ5はルクセンブルグ、ベルン、ジュネーブ、ヘルシンキ、チューリッヒ、ワースト5はバグダッド、キンシャサ(コンゴ)、カラチ(パキスタン)、ナイロビ(ケニア)、バンギ(中央アフリカ)だそうです。

トップ50には日本から勝山(福井県)、大牟田(福岡県)、つくば(茨城県)、四日市(三重県)、神戸、名古屋、東京、横浜の8都市が入っています。トップ50に8都市も入っている国は日本とドイツだけ。英国はスコットランドのグラスゴーだけ、アメリカはどこも入っていない。

 

 

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2) キャメロン党首の「道徳的中立」批判


英国では最近、若者たちのナイフによる犯罪が目立っている、ということはむささびジャーナル(139号)でも紹介しましたが、英国のPA通信のサイトを見ていたら、両親が責任を持って素行不良の若者(ティーンエージャー)の行いを正さない限り、公的な住宅から立ち退きを迫られることになる、という記事が出ていました。ブラウン首相も最近の記者会見で、

若い人も、年寄りも最近は道を歩いていても安全な感じがしないという人が余りにも多い。家の中でさえも不安を感じるほどだ。少数の人間の行いがそうさせているのだ。この国では、やっていい行いとそうでない行いの間には境界線があるということを、みんな、特に若い人にはっきりさせる必要がある。Too many people, young and old, do not feel safe in the streets, and sometimes even in their homes, as a result of the behaviour of a minority," the Prime Minister told his regular Downing Street press conference. "We need to make it absolutely clear to everyone, but especially young people, that in our country there are boundaries of acceptable behaviour.

と言っています。PA通信によると、問題児とされるティーンエージャーを抱える家庭は約10万世帯、中でも約2万世帯が公団住宅からの立ち退きを迫られる可能性があるのだそうです。またこれとは別にYouth Crime Action Planというのがあって、ナイフを携帯していることが見つかった若者は、金曜日・土曜日に数百時間におよぶコミュニティ活動を強制されることになっているらしい。

ところで、7月8日付けのDaily Telegraphのサイトに、英国保守党のデイビッド・キャメロン党首が「いまの英国は道徳的中立文化(culture of moral neutrality)に毒されている」という趣旨の演説を行ったことが報じられていました。キャメロンのいうculture of moral neutralityというのは「何が正しくて、何が間違っているかを判断したがらない態度」(a refusal to make judgments about what is good and bad behaviour, right and wrong behaviour)のことを言っています。

Telegraphの記事は、キャメロン党首の主張をpolitical correctnessに対する攻撃と呼んでいます。political correctnessという言葉は、ここ10年ほどきわめて頻繁にメディアで使われている言葉で、略してPCと言っても通じるほどになっていますね。道徳的(moral)に正しいのではなく、政治的(political)に正しい・・・つまり「みんなが正しいというから正しいのだろう」という態度のことです。日本語でいうと「無難」とか「とりあえず正しい」とかいうことになるか?

キャメロンが強調しているmoral correctnessを突き詰めていくと、個人の責任(personal responsibility)を強調することにつながるわけですが、彼は社会問題である「貧困」や「社会的排除(social exclusion)」までも「個人の責任」に帰する部分が大きいと考えているようです。

どこで生まれたとか、隣近所や学校はどうだったかとか、親がどのような生き方を選んだか、という「環境」が大きなインパクトを与えることは言うまでもない。しかし社会問題のかなりの部分が、個人の選択の結果であることも確かなことだ。(Of course, circumstances - where you are born, your neighbourhood, your school, and the choices your parents make - have a huge impact. But social problems are often the consequence of the choices that people make)

キャメロンさんによると、いまの英国では肥満、アルコール依存、麻薬などの問題が、あたかもお天気の話をするのと同じように(他人事のように)考える傾向がある。これは政策というよりも「国民的な文化」(national culture)のようなもので、これを変革しなければ英国は良くならないというわけで、

この文化変革は家庭か始まる必要がある。壊れた英国社会を立て直して強い社会を築くための価値観は家庭において、家族の間から始まる必要があると思う。 I believe that this cultural change needs to start at home. The values we need to repair our broken society and to build a strong society are values that should be taught in the home, in the family.

と結論しています。Telegraphによると、キャメロン党首は、世論調査でブラウン首相を18ポイントも引き離しているところから、政治的にも自信をつけている印だとしています。

これに対してGuardianのコラムニストであるPolly Toynbeeさんは「英国社会は壊れていない」(This is not a "broken society" at all)として、

キャメロンは、なぜ英国の全家庭のたった2%の貧困家庭と崩壊家庭を例に挙げて、社会全体が善悪の感覚を失っているなどと言えるのか?キャメロンは道徳を説きながら、実際にはもっと刑務所を増やそうと言っているにすぎない。How dare David Cameron use the poorest and most dysfunctional 2% of families to hold up as exemplars of a society that has lost its sense of right and wrong? Cameron moralises but offers only yet more prison.

と批判しています。

▼「社会が壊れている」という感覚は、英国のみならず日本にだって大ありですよね。ただ「だからどうするのか?」という点になると、考え方というか発想にかなりの違いを見てしまう。

▼最近、14才の少年がバスジャック事件を起こしたことがありました。このことについて、7月18日付けの東京新聞が『バスジャック この短絡さはどこから』という社説を掲載していた。この事件と秋葉原の事件には「人間関係の渇望と親への強い反感という共通の背景が横たわる」としているのですが、「共同体の人間関係が希薄」になっているところに「社会の病理」が潜んでいる、というわけで、次のように結論づけています。

若者が短絡に走るのを防ぐには、家族や地域社会との緊密な関係が欠かせない。夏休みは、家族や友人との対話を取り戻し、緊密な関係を築き直すチャンスである。

▼若者の暴力事件が続発する世の中について、英国の場合は「まともに子供の面倒をみれないような家族は、公的住宅から出て行ってもらう」(ブラウン首相)とか「個人の道徳的責任の再生が大切」(キャメロン党首)と言っています。「親子で話し合ってみましょう」というような雰囲気ではないことは確かであります。

▼どちらが正しいとか間違っているとかいうつもりはもちろんないけれど、親子で話し合ってどうにかなるものなら、とっくに何とかなっているのではないか、という気持ちは私でなくとも持っているのではありませんか?東京新聞の社説はまた次のようにも言っている。

少年が親しい友人に交際の悩みを打ち明け、適切な忠告を受けてさえいれば、大事に至らなかったのではないか。「お前なんか死んでしまえ」と言ったという親も、しかり方を知らないのではないか。

▼つまり、親が悪かったということですか?「適切な忠告」を与えられなかった「親しい友人」たちが至らなかったってこと?もちろんこの社説の筆者は、そんなことを言うつもりはなくて、「世の中どうなってるんだ。なんとかしなきゃ」というつもりで書いたのだと思います。が、夏休みともなると、親子・隣近所・友人らが「緊密な関係」を築き直すために「対話」をするなんて・・・私が子供なら「ゲェーッ」と言って逃げ出すだろうし、大人だって、この暑いのに、ガキを相手に緊密な関係なんて、カンベンしてもらいたいと思いますね。

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3) 浜矩子さんの洞爺湖サミット評


内外(特に外国)のメディアから「得るものがなかった」とさんざ叩かれている洞爺湖サミットについて、同志社大学の浜矩子教授がOpen Demoracyのサイトに面白いエッセイを寄稿しています。題して「G8再生と卓上の幽霊(The recycling of the G8: ghosts at the table)」で「日本の福田首相はG8首脳をグローバル化の痛切な現実に直面させる格好の機会を逸した(Japan's prime minister Yasuo Fukuda had a golden chance to make the G8 summiteers face the painful realities of globalisation)という書き出しになっています。「卓上の幽霊」とは、貧困や食料不足に悩んだり、金融不安におびえる人たちのことです。

浜さんはまず、フランスなどが言っている「G8を拡大しよう」という意見について「G8だけでグローバル化した世界を動かすのは無理なのだから、拡大案も分からないではない」としながらも、そもそもこの首脳会議が1975年にG6として始まったときの意図は、「先進国の首脳が集まってお互いに心のうちを語り合い、目的を共有しよう」というものだった。それがいつの間にか、いわゆる外交上のギブ・アンド・テイクの場になってしまった。このような外交的な取引だの妥協だのというプレッシャーなしに、首脳同士が話し合うことのできる場を作ることが目的であったはずだ、というわけです。

新しいメンバーを加えることは悪いアイデアではないかもしれないが、現在の体制では、参加者を増やすことは集団的無責任というリスクを増やすだけだ。Bringing in new members is not a bad idea, but under the current dispensation more participants can only increase the risk of collective irresponsibility.

次ぎに洞爺湖サミットにおける検討課題について、50年後の環境問題も大切には違いないけれど、原油価格、食糧危機、金融危機、貧困など、もっと差し迫った問題もあった。にもかかわらずG8首脳たちは、これらの問題はG8以外の国を絡ませない限り取り組むことはできないとでも考えているかのようにさしたる注目を払わなかった、と浜さんは言っています。

(G8以外の国が参加しないと貧困・食糧危機のような問題には取り組めないという)心理は全く間違っている。そのような心理は、G8を何かの取引が行われなければならない交渉の場と見なそうとすることから来ている。そうではないのだ。首脳会議というものは、世界でも最も成熟し、最も恵まれた国々の尊厳と知性と正直さと慎みが普通にしかも厳しく試される場と見なされるべきなのだ。Yet this psychology is totally wrong. It comes of thinking of the G8 summits as places for negotiation where deals have to be made. That is not the case. The summits should be regarded as occasions in which the integrity, the intellect, the honesty and indeed the humility of the most mature and most privileged nations of the world are routinely and severely tested.

浜さんはまた、日本、とりわけ北海道という開催地とホスト役である福田首相の人柄からして、今回のサミットはこれまでのサミットに新しい息吹をもたらす絶好のチャンスだった、と言っています。

いま日本はいわゆるグローバル化のお陰で、これまでに経験したことのないような「貧困」や「不平等」を経験している国であり、中でも北海道は地元の中小企業が破綻して経済的に厳しい状況に置かれている。サミット会場を洞爺湖のような「贅沢」な場所ではなく、商店街が衰退しているような町にしていたら、サミット参加者も「グローバル化の本質」(nature of globalisation)について、インスピレーションに富んだディスカッションができただろうに・・・というわけです。

次にホスト役だった福田さんについて、浜さんは、彼の最大の強みは「番頭さん」の役割を見事に果たせる人柄であったのだとしています。つまり全く目立つことなく、淡々としているが断固としてご主人のために不可能を可能してしまう・・・プロの番頭ということです。いまの世の中(浜さんの表現を借りると)みんながみんな、弱肉強食のグローバル競争の中でガツガツしながら排他的な生存作戦に血道をあげている(the global jungle is driving everyone towards aggressive and exclusionist survival tactics)。そのようなご時世だからこそ、福田さんによる「番頭外交」は首脳たちをなだめすかし、時には叱りつけたりしながらサミット本来の役割に気付かせることができたはずなのに・・・と悔しがっています。

▼今回のサミットについては、英国のメディアの間では「食糧危機でアフリカでは子供たちが飢え死にをしているのに、豪華な晩餐会などやっている」という批判が出ていた。ブラウン首相などは、訪日する飛行機の中で同行記者たちに「食べ物をムダにしてはいかん」ということを語っていたのに、洞爺湖では8コースの豪華ディナーを楽しんでいたと皮肉られておりましたね。

▼サミットを無事に、しかも国際的に「恥ずかしくない」カタチで終えなければならない外務省の人たちにしてみれば、浜さんの言うような場所(夕張とか)でのサミット開催などは「絵空事」でしかないでしょう。それから福田さんが番頭役に徹していたら、日本のメディアから「存在感がなかった」とかいうお決まりの批判が出てきたでしょうね。ただ、浜さんの言っていることは、まともなことだと、私など思いますが・・・。

▼NHKの世論調査(7月15日)によると、福田首相がサミットの議長として指導力を発揮したかどうか尋ねたところ「大いに発揮した:4%」「ある程度発揮した:33%」「あまり発揮しなかった:41%」「まったく発揮しなかった:13%」という結果だったそうです。

▼この調査の回答者は「コンピューターで無作為に選ばれた」人たち、つまり普通の人たちですよね。外交の専門家ではないし、浜矩子さんのような国際経済の研究者ではない。違います?(私の推測が合っているとして)そのような普通の人たちが、どうしてサミットの成果のあるなしなど答えられるのでありましょうか?何を根拠にこの人たちは、福田さんが「大いに指導力を発揮した」とか「まったく発揮しなかった」などと言えるのでしょうか?

▼もし私が無作為に選ばれて同じ質問をされたら、お恥ずかしいのですが、答えは「よく分かりません」となるはずであります。本当に分からないのです。外交問題の専門家であれば、何らかの意見はあるだろうとは思うけれど、普通の人にとってはG8なんてコメントできるような話題ではない、と私などは思うのですが・・・。このような疑問を持つということは、私が意識が低いってこと!?

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4)いますでに「アメリカ後の世界」になっている


「アメリカの衰退」ということが言われて久しい気がしませんか?Fareed Zakariaという人が書いた『The Post American World』(出版元:Norton)によると、アメリカが衰退したのではなくて、他の国々が勃興してきているというのがいまの時代なのだそうです。

例えば、世界一高いビルは現在は台北にあり、間もなくドバイのそれに抜かれる。世界一の金持ちは(この本によると)メキシコ人、上場企業でイチバン大きいのは中国の会社、世界最大の観覧車はシンガポールにある。カジノといえばラスベガス、ではない。規模の点でも売り上げの点でもマカオがベガスを追い抜いているのだそうであります。映画産業も製作本数やチケットの売り上げでは、ハリウッドではなくて、インドのボリウッドが世界一・・・などなど、著者によると、これらはいずれも、かつてアメリカが「ナンバーワン」であった。

The Post American Worldという本のタイトルを訳すと「アメリカ後の世界」となりますね。この本は、世界から「超大国」であるアメリカがなくなった後の世界を描こうとしているわけですが、著者によると、実は「アメリカ後の世界は、もう到来している」ことは、上の例からも明らかなのだそうです。現代のアメリカ、特にワシントンの世界にいる人たちの中には、そのことが分かっていない人が多いということです。

著者はインド系のアメリカ人のようで、Newsweek International誌の編集長ですが、中国・ロシア・インド・ブラジル・南アなどの「新興国」の経済の発展振りが如何に凄いかを、いろいろな例や数字を挙げて語っています。中国の例としては・・・:

  • これまでの30年で、4億人が貧困から抜け出した。
  • 1978年の中国で生産されていたエアコンの数は1年で200セット。2005年では4800万セット。
  • 現代中国の一日あたりの輸出額は、30年前の1年分と同じ。
  • 世界中で使われているコピー機、オーブン、DVDプレーヤー、靴の3分の2が中国製等など。

しかしZakariaによると「中国がアメリカにとって代わって、世界のスーパーパワーになることはない」(China will not replace the United States as the world's superpower)のだそうであります。何故ならアメリカはもっと凄いからです。例えばアメリカの大学教育の質の高さ。中国の研究機関が行った世界中の大学教育に関する調査によると、トップ10のうち8つがアメリカの大学、英国の機関がおこなった調査でも7つがアメリカの大学だそうです。世界中の留学生の30%がアメリカを留学先に選んでいる。

さらにアメリカの軍事力。防衛予算の額は、アメリカに次ぐ14カ国の予算を全部合計してもアメリカのそれには追いつかないのだそうです。

もう一つ面白いと思ったのは人口構成のことです。American Enterprise Instituteという研究機関によるとアメリカは2030年までに人口が6500万人増えるのだそうですが、他の先進国と比べて特徴的なのは、アメリカでは、これからも15歳以下の若年層の人口が65歳以上の高齢者のそれを大きく上回るということだそうで、アメリカには労働人口が将来も沢山いるということになる。

国連の統計によると、ヨーロッパにおける労働年齢者と高齢者の人口比率は、いまは高齢者一人に対して労働年齢者は3・8なのが2030年には2・4になる。つまり働き手が少なくなる。アメリカの場合は、いまは5・4なのが、2030年には3・1になるのだそうです。つまりアメリカでも若年労働者は少なくなるけれど、ヨーロッパほどではないということであり、これがアジアになると、日本・中国・韓国などどこでも社会の高齢化は欧米以上と言われています。

というわけで、アメリカにはそれなりの強さは相変わらずあるけれど、かつてのように何でもアメリカ頼りというようなスーパーパワーではなくなっており、これからのアメリカに求められるのは、世界の国々の間における仲介者という役割であることを自覚すべきだと著者は言っています。

多くの「新興国」は、隣国との間で歴史的な敵対関係、国境問題、実際の紛争などの問題を抱えており、殆どの場合、経済力の高まりがナショナリズムの高まりを生んでいるけれど、

アメリカは、自分たちの近くで覇権主義の動きをするような国に対する不安感を抱える国にとっては、地理的に離れたところにいるパワーとして便利なパートナーとなる(Being a distant power, America is often a convenient partner for many regional nations worried about the rise of a hegemon in their midst)

ということです。中国については、あるシンガポールの学者が、

アジアでは誰も中国が支配する世界に住みたいとは考えていない。人々が追求する「中国の夢」というものはない(No one in Asia wants to live in a Chinese-dominated world. There is no Chinese dream to which people aspire)

と言っています。アメリカという国の理念が「移民が成功する場」ということになっていて、その意味では、現実はともかく、理想としてはAmerican dreamというものが、世界中のだれにでも開かれたものとしてある(ことになっている)けれど、中国やロシアにはそれがないということです。Fareed ZakariaThe Post American Worldの最後を次のように締めくくっています。

アメリカが、この新しい、挑戦に満ちた時代に繁栄し、アメリカ以外の国々が勃興してくる中で成功するためには、たった一つのテストに合格する必要がある。それは、アメリカがこれからも、アメリカにやってくる若い学生にとって、魅力的かつやりがいのある場所であり続けるということである。一世代前に、私が18才で変な学生としてやって来たときのアメリカがそうであったのだ。(For America to thrive in this new and challenging era, for it to succeed amid the rise of the rest, it need fullfill only one test. It should be a place that is as inviting and exciting to the young student who enters the country today as it was for this awkard enghteen-year-old a generation a go)

▼この本は、どちらかというとアメリカ人に対して、アメリカ本来の価値観のようなものに自信を持とうではないか、と呼びかけているという風情の本であります。やはりこのFareed Zakariaという人が、若くしてインドからやってきて、大いに実のある人生を送らせてくれている国を語るものとしてのアメリカ論という気がします。確かに、「世界の中のアメリカ」ということだけを考えるのであれば、この人の言うとおりなのかもしれない。

▼しかし(例えば)圧倒的な軍事力によって、アメリカはこれからも世界のリーダー(覇権国ではないにしても)であり続けるのかもしれないけれど、国内的には、それが故に福祉がなおざりにされたりして疲弊していくということにはならないのか?Zakariaによると、国内の諸々の問題は、アメリカの考え方全般が悪いのではなくて、ブッシュ政権の遂行してきた政策が間違っていたに過ぎない。はっきりそのようには言っていないけれど、ブッシュ前のアメリカ(つまりクリントンのアメリカ)に帰ろうと言っているようにも響く。

▼それはそれとして、Zakariaが称賛するアメリカ社会の開放性(9・11以後遅れてきていると言っています)とか、彼らが掲げる理想である「自由」とか「民主主義」などを否定することはできるのでしょうか?考えてみると、中国もロシアも、そしてあの戦争をアメリカと戦ったベトナムも、みんな経済体制としては「アメリカ化」しているのですよね。国によってやり方は多少違うけれど、基本は市場経済(計画経済ではない)というシステムでやっていっている。

最後に、この本の本題とはあまり関係ないかもしれないけれど、Zakariaはいまのアメリカと、かつての大英帝国を比較して語っている部分があります。ざっと言ってしまうと、大英帝国は自分の能力以上にいろいろなことにかかわりすぎたのが衰退・没落の原因であり、経済力で世界を支配したことで太って、怠惰になり、よりハングリーな新興国の台頭の時代に生き残ることができなかった、とのことです。

大英帝国の没落について一か所だけ、非常に気になる部分があった。Correlli Barnettという歴史家が語っている言葉を引用した部分です。

19世紀半ばのイングランドは(プロテスタントのリバイバルによる)「道徳的革命」に取り付かれてしまった。そのことによって、イングランドは、産業革命をもたらした実用的で理性的な社会から離れてしまい、宗教伝道師的な使命感、度を越した道徳主義、そしてロマティシズムに取りつかれた社会になってしまったのである。a "moral revolution" gripped England in the mid-nineteenth century, moving it away from the practical and reason-based society that had brought about the industrial revolution and toward one dominated by religious evangelicalism, excessive moralism, and romanticism.

▼つまり蒸気機関車などを生み出してパワフルになった英国が、途中でモラルの伝道師のような精神的な部分に取り付かれてしまったと言っているわけですよね。現在のアメリカもその気配がしないでもないのではない。いわゆるネオコンのように、「文明の衝突」だの「価値観」だのという精神論を言い始めると、その国はお終いなのでは?それは没落の「原因」というよりも「兆候」といった方が正しいかもしれない。

▼で、ここ数年の日本では、「XXの品格」とか「日本人とは?」、「価値観外交」というような精神論を言う人の声がますます大きくなってきているように思えてならないわけであります。このあたりのことについては、じっくり考えましょう・・・。

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5)むささびJの、どうでも英和辞典:j-l


journal: 日記・日誌
journalという英語は新聞だの刊行物という意味もあるけれど、日誌・日記という意味もあるんですね。知らなかった・・・。diaryの日記と少し違うのは、journalは公的な日誌とか記録という意味なのだそうです。英国議会の議事録のことをThe Journalsというらしいです。だとするとmusasabi journalというネーミングもまんざら悪くないってことになる。私、昔から日記なるものをつけたことがないのです。仮につけていたとしても、それを他人様にお見せしようとは思わない。バックナンバーを読むと、musasabi journalは、私個人の道楽ではあるけれど、なにやら過去5年半の世間の記録のようでもある。ところで私はjournalistではありません。あえて自分のことを呼ぶならばjournal-keeperですね。


knock:ノック

ドアを叩く音は日本語で「トントン」ですが、英語では?自信はないけれど、多分knock knockではないかと思うのであります。knock knock jokesというのをご存知ですか?子供向けの語呂合わせ・ダジャレ遊び。

knock knock.(トントン)
Who's there?(どなたですか?)
Isabel.(イザベルです)
Isabel who? (イザベルって誰?)
Isabel necessary on a bicycle?

わかります?最後のイタリックになっているラインはIs a bell necessary on a bicycle?(自転車にベルは必要か?)のダジャレのつもりなのであります。発音すると同じように聞こえる。Isabelを使って何か言えばいいというわけさ。あと二つほど・・・

Knock knock.
Who's there?
Toby.
Toby who?
Toby or not Toby, that is the question.

Knock knock.
Who's there?
Justin.
Justin who?
Justin time.

あまりやっていると、さすがにアホらしくなってくる。ここをクリックするといろいろでているようです。

昔聞いた、志ん生さんのダジャレ:

「あそこに衝立(ついたて)があるねぇ・・・」
「ええ、衝立十五日(ついたてじゅうごにち)・・・」

分かります?「衝立十五日」は「ついたち・じゅうごにち(一日・十五日)」のシャレのつもり。一日・十五日というのは、昔あった縁日の開催日でありまして・・・と説明しているようでは、だめなのですよね、ダジャレというのは。


listen:聴く・聞く

日本語の「聴く」と「聞く」がどのように違うのか?言語学的な説明などできませんが、おそらく「聴く」の方が、より意図的・集中的ってことですかね。英語のlistenhearはもう少し分かりやすい。前者は能動的に「聴く」のであり、後者は受身的に「聞こえる」だから。

I did't hear the phone because I was listening to the radio

はその典型的な使い方でありますね。ラジオを聴いていたので、電話の音(ベル)が聞こえなかった・・・。情景が容易に浮かびますよね。では、これを引っくり返して

I did't hear the radio because I was listening to the phone

とすると、どのような情景になるのでしょうか?電話で何か深刻な話をしていたので、ラジオの野球中継も耳に入らなかった・・・。この文章の方が思わせぶりでいい。

Listen, my son, I do hear what you say, but you ought to listen to me. Don't go out with that girl. OK? Can you hear me? Are you listening to me!?

というのを訳すと「よく聴け、息子よ。お前の言っていることは分かる。けどなオレの言うことを聞け。あの娘はあかん。聞こえとんのか!聴いとんのか、このぉ!」となる。結構ややこしい。

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6)むささびの鳴き声


▼7月19日付けの朝日新聞のコラムに野茂英雄の引退のことが書いてありました。力任せに投げたボールを力任せに打つ・・・野茂のピッチングはアメリカ野球にぴったり合っていた、というニュアンスのことが書いてあった。書いた人はアメリカでの野茂を見たことがあるのだそうです。

▼いちゃもんをつけさせてもらうと、アメリカの野茂がバッタバッタと三振を取れたのは、力任せの快速球ではなくて、フォークボールだと思います。アメリカの水準からすると、それほどでもない直球とフォークボールの混合ピッチングに、アメリカの打者は翻弄されたのではないですか?

▼近鉄時代に、二塁手として、野茂と一緒に野球をやっていた大石大二郎の野茂評が面白かった。「三振かフォアボールかだから、守りにくい投手だった」というのです。これは言えてますね。私も何度か西武球場で野茂のピッチングを見たけれど、やたらとフォアボールや暴投が多かったのであります。でもあのピッチングフォームは良かった。とにかく一度完全に打者に背中を向けるのだから、打者はイヤだったでしょうね。怖いもんな。

▼昔、西鉄ライオンズという球団があって、若生というピッチャーがいました。この人は、野茂以上に後ろを向いてから投げていた。しかも横手投げの変則フォームだから、野茂以上にボールがどこへ来るのか分からない(ような気がした)。なぜあれでストライクがとれるんですかね。

▼それはともかくとして、野茂は日本のプレーヤーが大リーグに行く道を開いたパイオニアですよね。失われつつある、私の記憶力を駆使しただけでも、伊良部、新庄、桑田、イチロー、二人の松井、城島、松坂、福留・・・その他沢山の人が野茂のあとに続いている。チームからすると、お客さんに来てもらえる選手ばかりがアメリカへ行ってしまう。何故、そうなるのか?一つの理由としてNHKが、日本人大リーガーの試合だからというので、生中継したり、その日の活躍を国民的英雄として扱ったりすることがありますよね。松坂は、ボストンに行ったからこそ日本で全国区のヒーローになれた。所沢の西武ライオンズにいたのではそうはいかなかった。

▼最後に、韓国・朝鮮日報の日本語サイトに「MLB:日本人大リーガー大躍進、韓国人はほぼ全滅」という見出しの記事が出ていた。これは昨年12月の記事で、福留や黒田のような日本人選手が大リーグと契約したことに関連した記事であります。「韓国人大リーガーが減る一方、日本人大リーガーは基本に忠実で、年俸に対しても都合のよい面があるなど、メジャー球団からのラブコールが相次いでいる」とのことですが、"年俸に対しても都合のよい面"とは何のことでしょうね。韓国選手の方が高いってこと?記事は「朴賛浩や徐在応、金炳賢が連日登板し、チェ・ヒソプが本塁打を放って雄たけびを上げていたころはほんの数年前にすぎないが、懐かしく感じる」と締めくくられています。つまりきっと韓国でも同じような自国選手の英雄扱いがあったのでしょうな。私が知らなかっただけ・・・!?


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