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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
musasabi journal
第140号 2008年7月6日

   

うろうろしているうちに、2008年も半分過ぎてしまいました。今年の夏も暑そうでありますね。でも、この調子で時間が過ぎると、あっと言う間に寒い冬がくるでしょう・・・

目次

1) 世界の平和度比べ


平和研究で知られるGlobal Peace Index(GPI)というNGOが毎年発表している平和度調査の2008年版 によると、日 本は世界の140カ国中、5番目に平和な国だそうです。ベスト10は下記のとおりです。右側の「スコア」が低ければ低 いほど平和度が高いということになります。

Iceland 1.176
Denmark 1.333
Norway 1.343
New Zealand 1.350
Japan 1.358
Ireland 1.410
Portugal 1.412
Finland 1.432
Luxembourg 1.446
Austria 1.449

で、それぞれの「平和度」をどのように算出するのか、ですが、これには20件以上のさまざまな要因を挙げ、それぞ れに点数や数量を付けている。例えば、数量で表されるものとして「軍事費の対GDP比」「人口10万人あたりの国内警 備担当官・警察官の数」「人口10万人あたりの入獄者数」などがあり、数量ではなく「程度」を表すものとしては「政治的 不安定」「多国民への不信度」「暴力デモの可能性」「人権尊重の程度」「隣国との関係」などがあります。

1位のアイスランドについていうと、軍事費の対GDP比は1.086、人口10万人あたりの入獄者数は1.111、警察官などの 数は2などとなっており、「政治的不安定」「多国民への不信度」「暴力デモの可能性」「人権尊重の程度」「隣国との関係」 などはすべて「1」(つまり最も平和的)となっています。知らなかったのですが、アイスランドという国は独自の軍事 力を有していないのですね。ウィキペディアによると「現在のアイスランドにおける安全保障政策の基礎は、アメリ カ合衆国を中心とするNATOへの依存にある」となっています。

アイスランドが平和度1位であることについて、アイスランドのIngibjorg Solrun Gisladottir外相は

平和度指数によって、アイスランドという小さくて民主的な社会が持つ中核的な価値観が認められたことは喜ばしい。我々は軍隊を有していないが、数百年にわたって効果的に平和を実践してきたのだ。We are very pleased that the index confirms the core values of a small, democratic society...which has never had a military and has effectively practised peace for hundreds of years.

と語っています。

日本はどうかというと、アイスランドと余り変わらないのですが、「多国民への不信度」が「2」、「隣国との関係」が「3」 というあたりがちょっと違う。軍事能力は「5」だから、結構高いと見なされている(アイスランドは「3」)。

英国は49位。「多国民への不信度」が「3」(他の国の人々を余り信用していない!?)であることや、テロの対象となって いる、他国や他の地域への軍事介入の度合いが高いというのがその理由。しかし隣国との関係は「1」だから日本より もいい。

以下主なところでは、中国が67位、アメリカが97位、インド107位、ロシア131位、北朝鮮133位、イスラエル136位、 アフガニスタン137位ときて、140位(最下位)がイラクとなっています。 詳細はここをクリックすると出ています。

Global Peace Indexが発表する平和度調査は、南アのデズモンド・ツツ大司教、アメリカの経済学者、ジョゼフ・スティグリッツ、 、バングラデッシュの経済学者で貧者のための金融機関であるグラミン銀行の設立者、ムハマド・ユヌスらのノーベル賞受賞者や英国のリチャード・ブランソンらのビジネスマンらのバックアップを受けています。

▼日本を「平和国家」と呼ぶことに、日本人自身がためらいというか、引け目というか、素直に喜べないという感覚を持ってしまっていると思いませんか?平和憲法まで持っているのに、それを実践していないということへの引け目もあるし、平和憲法そのものを云々することが子供じみており、日本もそれなりの軍事貢献をしないと世界で大きな役割を果たすことができないという「現実論」もある。どちらかというと後者の方が強いですよね。

▼アメリカや英国から軍事貢献を、と言われると「そ、そうですか・・・で、でも・・・うちは憲法の問題が・・・」とドギマギしてしまう。そのような状態が20〜30年続いている。恰好は良くないかもしれないけれど、そのセンは貫いた方がいいに決まっております。

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2) フィンランドへの教育視察ツアーはムダ?


フィンランドといえば、OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development:経済協力開発機構)が主宰する、国際学力比較(PISA: Programme for International Student Assessment)でいつもトップになる国として知られていますね。日本のメディアでも書かれているし、英国でもよく知られています。

6月28日付けのThe Economistによると、フィンランドの教育視察をしに来る外国の政治家、お役人、ジャーナリストなどが相当な数にのぼっており、フィンランド教育省はこうした「教育ツアー」の訪問客の世話をする担当官を3人も置いているのだそうです。それだけではない。彼らが見学するための学校も15校ほど決めてあり、持ち回りで見学者を受け入れてもらうという制度まである。

で、このような「フィンランド詣で」には疑問を呈する人も当然ながらいる。英国のバッキンガム大学で、教育の国際比較を研究しているAlan Smithers氏は、

PISAの上位にランクされる国のやり方を真似しようなどとは思わない方がいい。彼らの成功は、学校教育以外の要素によるところも多いからだ。(You shouldn’t try to copy the top performers in PISA because position in those league tables depends on lots of other things besides what happens in schools

と言っている。つまり学校の授業だの教科書だのというものとは別の要素があって、外国が真似するわけにはいかない部分が大きいということです。同じようなことを、当のフィンランド人も言っている。ヘルシンキ大学のJarkko Hautamaki教授によると、フィンランド式の教育法の中で、外国でもやれる(かもしれない)のは、落ちこぼれ児童を早いうちから徹底的に教えることくらいのものだそうです。

フィンランドがPISAの上位ランクされるについては、この国特有の文化的、歴史的な事情がある、とHautamaki教授は言います。まず言語が発音しやすくて、不規則な言葉(irregular words)がないので、子供たちの読み書き能力が高くて当たり前なのだそうです。

フィンランド特有の歴史もある。この国がつい最近まで(1960年代)極寒の地に位置する貧しい農業国であったことによって、ストイックで自力向上への欲求が強いという国民性が生まれた。さらに、何百年もの間、外国(スウェーデンとロシア)に支配されたという経験があり、教育を外国に対する自己主張の砦にしようという意識が強い。だから大卒のベストの人たちが教師になろうとするので競争が激しい。10人中一人しか教員免許がもらえないそうです。

フィンランドの教育内容そのものよりも、教育政策の決め方を学んだ方がいい、とThe Economistの記事は言っています。フィンランドの教育改革は1970年代初頭に行われ、それまでの進学校と職業学校を統一して総合学校(comprehensive school)が作られたのですが、その際に2年がかりで国民的な幅広いコンセンサスを確立し、そのあとは後戻りをしないというやり方でこだわってきた。軌道に乗るまでに10年かかったけれど、それ以後は殆ど変える必要がなかった。

Alan Smithers氏は、英国における教育政策の問題点として、余りにも変わりすぎることを挙げて「英国の政治家は、教育についての新しい政策発表をしない日は、無駄な一日と考えている」(Politicians here seem to think that a day without an education announcement is a day wasted)と言っています。OECDの教育研究者であるAndreas Schleicher氏も「教育政策は過去の積み重ねのうえにあるべきだ」(New policies should build on previous ones)と言っています。

▼The Economistのこの記事には、10年間フィンランドで暮らしているという英国人読者からの書き込みがある。この人の観察によると、何と言ってもフィンランドが単一民族の社会であることが大きい。学級でのコミュニケーションが英国のような他民族社会とは比較にならないくらい簡単だそうです。この人の観察によると、テレビにおける議会の中継が真面目で知的な刺激になっており、他の国(英国のことか?)のような「喜劇コンテスト中継」ではない、と言っています。

▼私の妻の美耶子は、主に中学生を相手にした英語・数学の寺子屋授業を、なんと40年(!)も続けています。つまり最初の教え子はもう50才を超えている。その彼女が一番嬉しいと感じるのは、教え子が学校のテストでいい点数をとって喜ぶ姿を見るときです。どちらかというと人並み以下の成績の子供を教えることが多い。それまでは30点だったのが50点になり、60点になる・・・子供も親もさぞや嬉しいでしょうね。

▼いちいち面倒だから理由は言わないけれど、この国から進学塾なるものがなくなったらさぞやすっきりすると思いますね。美耶子の寺子屋はいいけれど、進学塾はダメ。前者は30点の子を60点に引き上げようするものであり、後者は90点の生徒を99点や100点にしようとするものだからです。何故、後者はダメなのか?だから、いちいち面倒だから理由は言わないっつうの!

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3) 和平と宗教


7月3日付けのThe EconomistMediation and faithというタイトルの記事が掲載されています。イントロがIn some cases, only the religious have the patience to be reconcilers(場合によっては宗教者だけが和解促進のための忍耐力を有していることもある)となっているとおり、戦争している当事者間の和解に果たす宗教の役割について書かれています。

イタリアにサンテディージオ・コミュニティ(Sant'Egidio community)というカソリックの集団がある。1968年に主として貧困救済を目的として設立されたものなのですが、最近ではアフリカのモザンビーク、コートイジボアール、南米のグアテマラ、それにコソボのような紛争地域で和平のための仲介者としても活動したりしているそうです。サンテディージオ・コミュニティの国際部長は、宗教組織の強みは、紛争地域における「草の根の現実」(grassroots realities)と接触している地元の宗教関係者とコンタクトがあることだとしています。

サンテディージオ・コミュニティという組織は、世界70カ国に6万人の会員を有する組織で、 昨年、ブッシュ米大統領がイタリアを訪問したときも、この組織のメンバーを会談したそうです。

オランダの国際問題研究所(Netherlands Institute of International Relations)が、2005年に発表した報告書は、キリスト教、イスラム教などの宗教をベースにした平和団体の活動を分析した結果として「長期にわたるコミットメント(関わり)、現場にいること、道徳的・精神的な権威などの要素によって、和平活動に部外者として関与することができる」ということを宗教組織の強みとしています。

が、宗教組織には、それが故の弱みもある。和平のための和平になってしまって結果についての焦点がぼけてしまう、仲介者としての専門性に欠ける、つい布教活動に傾いてしまう・・・などがそれです。アメリカ議会が資金を出している、アメリカ平和協会(United States Institute of Peace)などは、宗教組織は宗教対立があるエリアにおいては特別の役割を果たせる」としてはいるけれど、例えば「中東和平は非宗教的なイニシアティブによって進展を見てきている」として、宗教組織の限界を認めています。

このような懐疑的な見方に対して「中東和平は宗教組織をからませなかったが故に、進展が微々たるものに終わっていることも考えられる」と言う人もいる。Search for Common Ground(共通の基盤)というNGOのエルサレム支部でアドバイザーをしているSharon Rosenさんは、

宗教間の対話が中東に平和をもたらすとは思わないが、平和をもたらそうと思うなら、宗教間対話が欠かすことができない。宗教を無視するのは大きな間違いであり、(中東和平のための)オスロ合意もこの間違いを犯している。(I do not believe that inter-faith dialogue will bring about peace in the Middle East. But I do believe that it is essential if peace is to be brought about. To ignore religion is a very grave mistake and I think the Oslo accords made that mistake.)

と言っている。和平交渉に欠かせないのは「新たな共通項(new commonalities)」を見つけることであり、宗教組織は、両者の間の尊敬の念を醸成することで、外交官や政治家による和平活動を援助することができる、というわけです。

▼キリスト教の牧師さんとイスラム教の聖職者が会議をやっても、中東和平はできないけれど、平和のためには宗教者の介在が欠かせない・・・というのは真実をついていると思いませんか?政治・外交・軍事などの世界は、人間のアタマが支配する世界ですよね。しかし「平和」とか「和解」などの世界は人間のアタマ(理屈)だけではどうにもならない世界ですからね。つまり両方ないと平和は難しいってことですね。

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4)ポピーと桜と日英関係


山梨学院大学の小菅信子教授の『ポピーと桜』(岩波書店)は、教授と英国人との交わりを描いた本です。交わった相手は、第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となり、苦しい収容所生活を送った英国人たちです。

極東国際軍事裁判の記録によると、第二次世界大戦中に、英国、アメリカ、オーストラリア、オランダなど欧米連合軍の兵士132、134人が日本軍の捕虜になったのですが、そのうち27・1%にあたる35、756人が日本軍の管理下で死亡したそうです。同じ戦争中にドイツ軍やイタリア軍の捕虜になった英米人の死亡率は約4%で、日本軍に捕まった人たちの死亡率が圧倒的に高い。英国人捕虜は50、016人で、うち12、433人が死亡しており、このことが英国内の反日感情の火種になってきています。

『ポピーと桜』の著者である小菅さんは、研究のために英国(ケンブリッジ)へ渡ったご主人と一緒に2年ほどケンブリッジで暮らすことになるのですが、ひょんなことから元捕虜たちと交流することになり、「ポピーと桜クラブ」という会を作るなどして、「日英和解」に活動にかかわることになる。この本は、その間に著者が経験したさまざまな出会いや語らいの詳細な記録です。

私が最も興味深く感じた部分を一か所だけ抜き出して紹介します。それはある日本人(戦争捕虜ではない)が、「日英和解」に取り組む英国人の大学教授に語った言葉です。

英軍捕虜問題を論じる際には、植民地主義についての議論も、あわせて進めていく必要があると思います。日本人は、日英和解という議題を、日本と英国だけの関係のなかで探求していくことはできません。アジアの端にある日本と、ヨーロッパの端にある英国とのあいだには、ユーラシア大陸があるのです。そこには韓国があり、中国があり、そして東南アジアがあります。そうした国々に対する植民地主義の問題を抜きにして、日英和解をいきなり語ることは、日本人にはできないのです。

この問いかけをされた英国人の大学教授は「ちょっと眉をひそめ、でも興味深げ」であったと小菅さんは語っています。

▼実は私にもよくわからない。この人が言うのは、日本軍による英軍の捕虜虐待行為も、その起源は日本がアジア諸国に対して行った植民地主義にあるのだから、まずはそちらと和解をする必要があるってことでしょうか?そもそも、捕虜虐待のように、生身の人間の経験がからむことでの「和解」は、「探求」とか「議論」とかいうものの対象になり得るものなのでしょうか?

このあたりのことについては、小菅さん自身が、

「日英和解」ということになると、概して、英国人はどちらかというと感情的なレベルで、日本人はもっぱら高度な知的なレベルでイメージしているような気がします。

と解説しています。

▼小菅さんの解説の部分が私にはとても面白いと思うわけです。つまり天皇・皇后が英国を訪問したときに、反日デモをした英国人たちが怒っていたのは、日本の戦争行為ではなくて「日本軍の残虐行為」だった。戦争捕虜というのは、戦いをギブアップして降伏した人たちですよね。その人たちをさらに虐待する・・・これほどアンフェアなことはないということで怒っていた。

▼日本も英国もアジアで植民地主義的侵略行為をやっていたけれど、英国人は日本の植民地主義や戦争そのものを問題にしているのではなくて、「日本軍による捕虜いじめ」を問題にしているわけですよね。「植民地主義についての議論も、あわせて進めていく必要がある」と言いますが、本当にそうなのでしょうか?英国人の元捕虜の立場で想像してみると、 日本の植民地主義など語らなくても、自分たちのことは語れるだろう、ってことになる。

それにしても『ポピーと桜』というのは、どうも不思議な本なのですよ。和解活動家としての小菅信子という人が書いた「個人的体験報告」であり、たくさんの人物が出て来るけれど、最初から最後まで主人公は語り部である小菅さんです。但し話題が、異なった国や人々の間の「和解」だけに、単なる個人的体験談にはとどまらない本になっている。

例えば次のようなくだり。

こざっぱりしたウェルズさんの家に入ると、リビングの次の間に刺繍台があって、やりかけのかわいい花模様の作品がかかっていました。

という文章のすぐあとに、 その「ウェルズさん」が小菅さんに言った次のような言葉が出て来る。

「あなたは教会で、ジェリーに、アイ・アム・ソーリーといっていたけれど、あれはよくないね。戦後生まれのあなたがすまなく思う必要はないよ。二度と謝ってはいけないよ。<中略>大事なことは理解だよ。相手を理解すること、自分を理解してもらうこと、それが我われにとっての和解への第一歩なんだよ。」

「ウェルズさん」は英国退役軍人会の人、彼の言葉に出て来る「ジェリー」というのは元日本軍捕虜の一人で、ひどい目にあった人です。

▼最初のウェルズさんの家の室内がどうなっていようと、和解というテーマには関係ないし、私(読者)にとってもどうでもいいことなのですが、ウェルズさんが小菅さんに語った「あなたは教会で・・・」の部分にはぎょっとする。この種のことを考えることは、自分にも直接関係していますからね。

▼二つの文章の落差がめちゃくちゃ激しい。でも繋がっているようにも思える。こういうことの連続なのです、この本は。不思議な本(というか読書体験)であります。おそらく、ウェルズさんちのインテリアも、ウェルズさんが発した言葉も、日本人のことを憎んでいる元捕虜に対して「アイ・アム・ソーリー」と言ってしまった小菅さん自身も、小菅さんという人の体験という意味では同じことであり、その一切合財を吐き出してしまったのが『ポピーと桜』なのでしょうね。

▼著者自身が「みなさんに読んでいただくことで、私の物語を、私たちの物語にすることができたら・・・」と言っています。

小菅さんは1960年生まれです。私よりも20年も若い。その小菅さんは、

「私のような戦後世代は、祖国の犯した過去の罪ゆえに罰を受けることはないにせよ、罪は引き受けなければなりません」

と言っています。

▼これは小菅さんのメッセージであり、彼女個人のものです。が、そのように語りかけられたら、どうします?取り得る態度は 「おっしゃるとおりです」、 「それは自虐的歴史観だ」、 「そんなことに興味はない」 の3つのうちのどれかしかない(はずです)。どの態度をとっても構わないけれど、自分の態度について「何故そうなのか」ということは、考えたり、語り合ったりした方が自分のためにいいことは間違いない、と私などは思うし、そのような社会的な雰囲気は大事にしなければいけませんよね。

小菅さんの本とは関係ありませんが、2007年9月に日本記者クラブで、広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長(アメリカ人)の話を聞きました。アメリカ国内で原爆展を予定しており、その説明のための記者会見だったのですが、リーパーさんは、原爆展の趣旨について「敵対的な意識や反感ではなく、逆に和解を進めて行こうということだ」と強調し、

「家が火事になっているときに、真っ先に考えるのは"誰が火をつけたか"ではなくて、"みんな早く逃げよう"ということのはずだ」

と言っていた。小菅さんの「ポピーと桜の会」もリーパーさんの「原爆展」も、両方とも未来のための「和解」を言っているように思えます。リーパーさんの講演録は、ここをクリックすると見ることができます。

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5)むささびJの、どうでも英和辞典:g-i


ghost:幽霊
3年前(2005年)の調査によると、アメリカ人の32%が幽霊(ghosts)の存在を信じていると答えたのだそうです。調査はギャラップ社が行ったものです。意外だと思うのは、幽霊を信じるという人の内訳でして、政治的な保守派は25%なのに、中間派が35%、リベラルの42%が幽霊を信じているというのであります。年齢別な内訳を見ても、18〜29才だと45%が幽霊を信じているのに、65才以上は22%となっている。これは何なのでしょうか?

日本人はどう思っているのか?あるサイトによると、28・51%が「信じる」、14・47%が「幽霊はいないと思うが、見たら信じるかもしれない」と答えており、22.13%が「いるわけがない」と完全否定しております。年齢別の結果は出ていないけれど、ネット・アンケートに答えるくらいだから、どちらかというと若い人なのでは?「信じる」が「信じない」を上回るのですね。意外です。可笑しいのは「いないと思うけれど見たら信じる」という「どっちつかず」グループですね。誰でも、見たら信じますよね!


happiness:幸福
英国のRichard Layardという経済学者は第一期ブレア政権(1997年〜2001年)のアドバイザーをつとめた人ですが、HAPPINESSという著書の中で、人間の幸福についていろいろと経済的な考察をしています。で、その結論として次の2点を挙げています。
  • 自分にとってのベストを追い求めることだけが義務ということだと、人生はストレスだらけで孤独なものになる。結局、うまくいかない。If your siole duty is to achieve the best for yourself, life becomes just too stressful, too lonely--you are set up to fail.
  • 自分のことを超えた大きな目的なしには幸福にはなれないが、自分のことを知らず、自分を受け容れない限り、幸福にはなれない。You cannot be happy without a wider goal than yourself, but you cannot be happy either without self-knowledge and self-acceptance.

この人、現在は貴族院議員だそうですが、上記のような発想を持っている人がブレア政権の初期にアドバイザーをつとめていたということが、あの時代の労働党政権の性格を反映しているとも言えますね。イラク戦争前のブレア政権です。サッチャー流の自己中心主義(必ずしも悪い意味ではない)からの脱却です。


I:私
アルファベットには26文字あるけれど、唯一"I"だけが、1文字だけで意味を持っています。"a"も「一つ」とか「或る」という意味で使われるけれど、単独では単なる文字に過ぎない。"I"は「私」と言う意味であるけれど、英語では"I"(私)をどのように説明しているのかと思って、手持ちの辞書で調べてみたら

代名詞。動詞の主語として使われ、話し手や書き手が彼(彼女)自身について言うときに使われる。 [pronon. Used as the subject of a verb when the speaker or writer is referring to himself/herself]

となっていた。

ところで「私はサンマが好きです」という日本語を英語で言うと"I like Sanma"。エリザベス女王、ブラウン首相、パブのバーテン、タクシーの運転手、大学教授・・・誰が言っても"I"という言葉が最初に来ることに変わりはない。 そこへいくと日本語は素晴らしいですね。"私"にも「あたし」「おれ」「ぼく」「あて」(関西弁)等などいろいろある。落語の世界だと"I like Sanma"も、言う人(主語)によって違ってくる。

「ア、アタイ、サンマ、好きだもんな」(与太郎)
「あっしはね、えぇ、このサンマてえものには目がねえんで・・・」(大工の熊さん)
「あちきはサンマが、すきでありんす」(吉原のおいらん)
「てまえ、サンマなるものは食してみたいとこころえおるのだ」(サムライ)
「せつは、サンマというものは食べ物と思っておりません。ほほほほ」(きざな若旦那)

文化水準の高低が「多様性」にあるとすると、日本語は"I"に限っていうとかなり高い部類に入る!?

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6)むささびの鳴き声


▼7月2日付けの東京新聞によると、昨年1年間、日本で流通した割り箸の膳数は231億膳だそうです。「流通」というのは、おそらく売れた割り箸の数ということでしょうね。つまり割り箸製造業者が(例えば)コンビニのホカ弁用に売った数ということ。使われた数ではない。これが使われた数だとすると、日本の人口を1億人として、一人あたり1年間で231本使ったことになる。そんなに使ってはいませんよね、いくらなんでも。

▼割り箸231億膳といってもなんだかよく分からないけれど、同じ記事によると、日本における年間の割り箸ゴミの木材量を全部足すと、「標準的木造2階建て住宅」1万〜2万戸に相当するんだそうです。これを聞くと思わずうなりますね。もっとうなってしまったのは、231億膳の9割は中国からの輸入だということです。殆ど全部ってことですね。この231億膳を作るために中国では、すごい勢いで樹木が伐採されているとのことで、「日本の山林に生えすぎている樹木を利用すべきだ」という意見が紹介されていました。

▼同じく東京新聞の読者の投書欄に"「落書き」報道に疑問"というのがありましたね。イタリアのフィレンツェにある世界遺産の大聖堂に落書きをして解任された、高校野球の監督の話です。この落書きについて「日本人の恥」などと報道したのはやりすぎであり、この監督を解任した高校の意図は「自分たちはちゃんと処理しました」という形式的な責任逃れをしたかっただけ、とのことであります。この投書によると、落書きをしたのが2年前のことなのに「2年も前のことを客観的状況を正確に検証することもなく」解任したことの妥当性について「マスコミの言及がほしかった」と言っています。投書をしたのは70才になる人です。無駄に年をとっていない。実に正しいことを言っております。

▼落書きといえば、何者かが新幹線に落書きをしたというハナシがあったですよね。で、JRが落書きされた新幹線の運行を取りやめて「500人の足に影響」ということだった。私、このニュースをラジオで聴いたときに信じられない思いでありました。たかが落書き程度で運行取りやめ!?この新幹線に乗ろうとしていた500人の乗客はどうしてくれるんだ、と言いたいわけです。落書きされて新幹線が走れないわけではないでしょ。


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