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むささびの鳴き声
079 イングランドにて:捕鯨の何が悪いのか?

Finstock村の我が家のお隣さんは、フレーザーとマーサの夫婦、それにビリーというワンちゃん(ジャックラッセルテリア)という家族です。ファミリーネームはリンゼイ。フレーザーは43才、マーサの年齢はたぶん30代であろうと思いますが聞いていない。フレーザーはアイルランド系で、マーサはウガンダからやってきた。彼らがFinstockへ引っ越してきたのは約4年前、その前はオックスフォードを含めて結構いろいろなところで暮らしたのだそうです。いずれにしてもFinstock土着の人たちではない。

彼らが外出するときに妻の美耶子がたびたびビリーを預って面倒をみてきたということもあって、先日、夕食に招かれました。フレーザーは職業としては、いまいちはっきりしないけれど、庭師のようなことをやったりしているようであります。英国の場合、日本のように「教師」とか「新聞記者」とか「サラリーマン」などような「定職」についてはおらずいろいろなことをしながらそれなりに収入を得ているという人が結構いるので、フレーザーの場合もそれほど不思議な存在というわけではない。

ただフランスとイタリア経験が長くてフランス語とイタリア語がしゃべれる。このことだけでも、英国人としてはメチャクチャ変わっているけれど、政治・文化から動植物のことまで私の基準からすると、ほとんど異常ともいえるほど知識が豊富であり、フレーザーがただの庭師でないことは確かです。尤もはっきりしていることも二つある。まずフレーザーの料理の腕前がプロ級であるということ、それと二人とも極めて熱心なキリスト教徒であるということであります。

夕食に招かれたときにフレーザーが作ってくれたのが、タマネギをタルトの中に入れて、お酢と砂糖で味付けをしてオーブンで焼いたもので、名前はオニオン・タターという食べもの。生まれてそれまでに食べた料理の中でも十本の指に入るくらい美味しいものだった。なんと言っても有難かったのは、脂っこくないということで、英国料理につきものの重い感じが全くしないものであったということです。

で、食事を終わってワインをちびちびやりながら四方山話をするなかで、なぜか日本による捕鯨ということが話題になった。マーサに「アナタはクジラを食べるのか?」と聞かれたので、「うんと小さいころに食べた記憶はあるけれど、何十年間とクチにしたことはない」と言うと多少安心したような顔をした(と私には見えた)。そこでその話題はお終いにしておけばよかったかもしれないのに、心にあることがつい口に出てしまう私のくせがここでも出てしまい「でも、私がクジラを食べないのは、欧米の動物愛護のグループが言うようにクジラが絶滅の危機に瀕しているということが理由ではない。ただ何となく食べないだけ」と言ってしまった。

さらによせばいいのに追加して、昔、あるオーストラリア人と捕鯨について議論をしたときのことを話題にしてしまった。そのオーストラリア人はクジラの人口が減っているのだから、これを捕獲するのはよくない、という趣旨のことを言っていたので「ある生物の人口が減っているとか増えているとかいう理由で、殺してもいいかどうかを決める権利は人間にはない。牛の数は減っていないのだから殺してもかまわないというのは差別だと思う」と私が言うと非常にイヤな顔していたのであります。

私がこの話をすると、フレーザーが「我々人間は動物の守護者(custodian)であるからして、ある動物が絶滅の危機に瀕している場合はこれを守る義務があるのだ」と言い始めた。彼とマーサの論理によると、この世の中には、一番上に神という存在があり、その下に人間、さらにその下に動物がいる。この関係からして人間が動物を守るのは神に対する義務でもある、ということになる。

「それではどの動物は殺してもオーケー、どの動物はダメというのを人間が決めるのですか?」と私がいうと「それが守護者としての義務なのだ」とフレーザー。マーサが「でも、どこにラインを引くのかが問題よね」というので、「ラインなど引けないに決まっているでしょ。人間にはそんな権利はないのだから」と私が教えてあげると、「それは危険な考え方よ」とマーサが反論し始める。ラインは引けないというような考え方は無秩序に繋がるというわけです。

で、「私の場合、草刈りをするときだって正直言うと、刈られる草に対して申し訳ないような気になりながらやるのさ。でも申し訳ないからと言って、草刈り止めるということではない。自分の庭をきれいにしたいし・・・でも申し訳ないと思いながら刈るのと、何とも思わずに刈るのでは違うと思うな」と私が自分でもわけのわからないことを口にしたところ、フレーザーが非常に意外なことを言いましたね。「植物と動物は違う。草はいくら刈っても構わない」というのであります。「道理でアンタ、この間、除草剤をまいていたよね。あれは残酷だ」と私が非難したりして、あとは何やらカンカンガクガクという感じで、ついにマーサが「ジロウ、貴方にあげたいものがある」と言って、持ち出してきたのが、やたらと分厚い聖書だった。「無理とは言わない、絶対に。でもこれを読んでくれたら私は嬉しいと思うわ」というわけで、「初めに言葉ありき(In the beginning was the Word)」という有名な言葉で始まるヨハネの福音書から読むように勧めてくれました。

というわけで、夕食会が思わぬ討論会のようになってしまったわけでありますが、マーサもフレーザーも東洋人とこのようなディスカッションをしたのは初めてのことで、それなりに楽しんでいたようであります。やはり自分たちの世界だけで考えているよりも私のようなよそ者の話を聞くのも面白いと思ったのではないか、と私は勝手に想像しております。で、日本へ帰ったら禅の本を送るから、と約束しておきました。おそらく禅の教えでは、人間が四足動物の守護者であるということはないと思うし、草花なら殺してもいいとも言っていないであろう、と言うのが私の言葉でありました。

マーサたちと捕鯨談義をした2週間後、オックスフォードでノルウェーから来ている中学校の先生(男性)と話をする機会がありました。ノルウェーとアイスランドは日本と同じような捕鯨国ですよね。もうすぐ60才かなという見かけのこのノルウェーの先生に「人間は動物たちの守護者・・・」という英国のキリスト教徒との「激論」の話をしてみたところ、彼は「その英国人の言うことは正しい。私もクリスチャンであるが、確か旧約聖書のどこかに神・人間・動物の関係について書いてあった。人間は動物を守るべきだ」とのことでありました。

そこで、「そうですか・・・つまりノルウェーは捕鯨国であるけれど、アナタは鯨の肉なんか食べないってことですね」と念を押したところ「いや食べますよ、ちょっと高いけれど」とあっさり言われてしまった。「牛肉や豚肉と違って、鯨肉のいいところは、お腹にたまらないってこと。日本にはクジラ料理のレストランはないの?スーパーでは売っていないのか?」と問い詰められてしまった。「いや、レストランがないってわけではないけれど、それほど一般的ではないし、スーパーには売っていないと思う」と、妙な成り行きに多少しどろもどろになる私。彼によると、そもそも鯨が絶滅の危機に瀕しているということがウソなのだそうであります。

つまり鯨をめぐっていまのところ三つの意見があるということでありますね。

1)英国人+ウガンダ人の夫婦=絶滅する動物を守ってあげるのが守護者である人間のつとめであり、鯨は絶滅の危機にある。だから捕鯨は良くない。食するなどとんでもない。

2)ノルウェー人の教師=人間守護者説は正しい。が、鯨は絶滅の危機にあるわけではないのだから、捕鯨は許される。食べるとなかなか美味しい。

3)むささび=人間守護者説は間違っている。「絶滅の危機」が本当かどうかは分からないし、そんなことはどうでもいい。どうしても食べたければ遠慮すべきではない。が、食べるときにちょっとだけでいいから「申し訳ない」と思うべきである。

この中で、我ながらいまいち筋が通らないように見えるのが3)ですね。「申し訳ない」と思いながら食べろというわけですからね。筋を通すためには、申し訳ないと思ったら食べないという態度こそが正しいはず。でも、人間そもそも筋が通らないような存在なのである・・・などと言うと「その筋を通すのが人間のつとめだ」とか何とか言いやがるだろな、キリシタンたちは・・・。
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