musasabi journal

240号 2012/5/6
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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
菜の花畠に、入日薄れ・・・は「日本の春」の風情そのものを謳っているけれど、小学唱歌なるものの多くがそうであるように、歌詞は小学生には難しい。「夕月かかりて、にほひ淡し」なんて分からないかもしれない。誰かがラジオで言っていたのですが、歌詞は美しければいいのであって「小学生にも分かる」必要はないのだそうです。「いまは分からなくても、いつか分かればそれでいいのだ」ということです。言えてる・・・。

目次

1)地方選挙:キャメロン、がっくり
2)「健全さ」のすすめ
3)中国:盲目の活動家の肩にのしかかるもの
4)美耶子のK9研究:能動的な学びの世界
5)ソシアルメディアと既成メディアは何が違うのか
6)ペンは政治家より強い?
7)どうでも英和辞書
8)むささびの鳴き声


1)地方選挙:キャメロン、がっくり

5月3日、英国では地方議会議員の選挙が行われ労働党があちこちで勝利を収め、保守・自民の連立政権には厳しい結果になってしまいました。今回の選挙は北アイルランドを除く英国全土の地方議会(イングランド:128議会、ウェールズ:21議会、スコットランド:32議会=合計181議会)で行われたのですが、労働党が75議会、保守党が42議会、自民党が6議会でそれぞれ過半数を占めて傘下に収めたのですが、どの政党も過半数を占めなかった議会が51か所となっています。労働党は前回よりも傘下にいれた議会数が32増加、反対に保守党は12議会減ってしまった。さらに地方議会における議席数でも労働党は823増の2158議席となったのに対し、保守党は405議席減らして1005議席にまで落ちてしまった。

地方選挙は現政権にとっては、自分たちが進めている政策がどの程度受け容れられているのかを見るためのチャンスのようなものであることは日本と同じです。今回の地方議会議員選挙は投票率が32%で2000年以来最低の投票率であったそうなのですが、全体的な得票数でも労働党が38%で保守党(31%)を上回っており(自民党は16%)、連立政権にとっては有難くない結果となています。

今回は地方議会議員の選挙以外にも注目された投票が二つあった。一つはロンドンの市長選挙、もう一つはバーミンガムなど10都市における市長の直接選挙に関する住民投票です。

ロンドンの市長選挙は保守党のボリス・ジョンソン現市長が労働党のケン・リビングストン前市長を押さえて当選したのですが、ジョンソンの得票数が約100万でリビングストンが99万だったのだから、正に薄氷を踏む思いの勝利だったわけです。それでも保守党の現市長が再選されたのだから保守党党首であるキャメロンにとっては悪い話ではないけれど、ボリス・ジョンソンはキャメロンにとって代わる保守党党首と目されているのだから思いは複雑だったかもしれない。

市長の直接選挙制度導入に関する住民投票ですが、行われたのはBirmingham、Bradford、Bristol、Coventry、Leeds、Manchester、Newcastle-upon-Tyne、Nottingham、Sheffield、Wakefieldの10都市だった。その結果、市長を直接選挙で選ぶ制度の導入が決まったのはBristolだけであとはすべて否決されてしまった。市長の直接選挙制度は地方分権の促進を望んでいるキャメロン首相にとってはなるべく多くの町で実現したいものであったのですが、これも失望に終わったと言えます。

▼英国生活が長い知り合いのアメリカ人によると、今回の選挙結果は、現政権が進めている財政赤字削減のための引き締め政策で一向に景気が良くならないことに英国人がうんざりしていることの表れであるとのことです。尤もこのアメリカ人は熱烈な民主党員だからどうしても反保守党的な見方になるのだろうと思います。ただ、現政権が生まれて丸2年、YouGovなどの政党支持率調査ではほぼ常に労働党がリードしているのです。ひょっとすると「連立」という政権の在り方が従来の保守党支持者、自民党支持者の間で評判が悪いのかもしれない。保守党右派はキャメロンが左寄り過ぎるというし、自民党左派は保守党に妥協しすぎると文句を言っている。

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2)「健全さ」のすすめ

The Prospectという雑誌のサイトに"A case for wellbeing"という見出しの記事が出ています。書いたのはIPPR(Institute for Public Policy Research:公共政策研究所)という組織のTony Dolphinという経済学者です。見出しを訳すと「健全さのすすめ」とでもなるのでしょうか。wellbeingは別の英語でいうとstate of feeling healthy and happyということで「心身ともに健全な状態」をいいます。

実はこれより前にCentre for Economic and Business Research(経済・ビジネス研究センター:CEBR)という機関が英国の祝日(bank holiday)について「祝日一日あたり英国経済にとって23億ポンドの損失」(The average bank holiday costs the economy £2.3 billion)という研究結果を発表しており、英国の祝日は一年に8日だから、合計で190億ポンドのGDPが失われていると指摘した。これがDaily Mailのようなメディアで取り上げられて話題になっており、Tony DolphinのエッセイはCEBRに対する反論として書かれたものです。

Dolphinの反論の中核となっているのは、GDPを増やすことだけが経済政策の目標(maximising GDP remains the overwhelming economic objective)とすることは間違っているということです。
  • 英国のような先進経済国は経済政策の目標としてのGDPは格下げして健全さと選択肢を増やすことに焦点を当てるべきときが来ている。
  • It is now time for advanced economies like Britain to downgrade GDP as an economic objective and to focus instead on increasing wellbeing and choice.
GDPを大きくすることのみを目標とすることの問題点はいくつかある。GDPの数字というものが市場経済における活動しか捉えていないこと、環境汚染のように結局は高くつく要素が入る経済活動でもGDPの中に入ってしまう。引き起こされた社会問題を解決する活動もGDPに入る。最後の部分ですが、例えば「犯罪の増加=刑務所係官の増加=GDPの増加」というような図式のことを言っています。刑務所の係官の仕事も経済活動として計算されると、犯罪の増加がGDPを押し上げる結果につながる。あるいは犯罪が増えて刑務所の数を増やすとそれだけ刑務所建設の企業にとってはビジネスとなるので、これもGDPを押し上げる。しかしその要因が犯罪の増加にあるとなると、GDPが増えたからといって喜んでいるわけにはいかない。

むささびジャーナルの203号でキャメロン政府がGDPよりもwellbeingの向上を目指しているという趣旨の記事を掲載しています。その中でも紹介したように、「社会の進歩を経済成長だけで計るのは不完全で、人々の暮らしの質も考慮に入れるべきだ」というのがキャメロン首相の発想です。つまり政策の柱として経済成長よりも社会のwellbeing向上を目指そうというわけです。ただwellbeingというのはGDPのように数値化できるかどうかが分からないというわけで、政府予算を使って統計局(Office for National Statistics:ONS)が昨年4月あたりから全国的なwellbeing調査を行っている。この調査では英国人が自分の人生であれ、暮らしている社会であれ、wellbeing向上のためには何を大切だと思っているかを尋ねています。その結果、英国人が挙げている言葉として「家族」「友人」「健康」「経済的な安定:financial security」「平等」「公平」などが挙げられている。ONSはいまの英国人がこれらの指標においてどの程度の満足感を得ているのかということを調査しているわけです。
  • ある政策にかかるコストとそれがもたらす利益を考える場合、単にGDPに与える金銭面での影響を見るだけでは十分ではない。その政策がもたらす効果をwellbeingに与える影響という広い視野からも検討されることが必要なのである。
    When the costs and benefits of a particular policy are being weighed up, it is not enough just to look at the monetary impacts on GDP. A broader consideration of the effect on all the factors that influence wellbeing is required.
とTony Dolphinは言っています。

最初に出てきた国民の祝日がGDPに与える損失という問題についてですが、祝日についての政策を行う場合、単にGDPだけで考えるのではなく、「家族」「友人」「健康」という要素も考慮にいれる必要があるということです。

オーストラリアの病院が、死んでいく患者を対象に「何をいちばん後悔しているか」というregrets調査を行ったところ最も多かった答えの一つが“I wish I hadn’t worked so hard”(これほどまでしてあくせく働かなきゃよかった)であったのだそうです。であるとするならば、祝日の一日や二日増やしたって構わないし、GDPが少々低くてもwellbeing向上の方が大切なのではないか?というのがTony Dolphinの主張です。

▼ちなみに年間の平均労働時間の国際比較(2011年:OECD)によると
  • 韓国 2193時間
    米国 1778時間
    日本 1733時間
    英国 1647時間
  • となっています。
▼経団連の研究機関である「21世紀政策研究所」というところが最近発表した『グローバルJAPAN:2050年シミュレーションと総合戦略』という報告書についてはメディアの多くが取り上げていますね。最も多い見出しは「日本、先進国から脱落」というもので、読売新聞の記事がその典型です。
  • 日本の生産性が他の先進国並みを維持する「基準シナリオ」では30年代からマイナス成長となり、41年~50年の国内総生産(GDP)成長率は平均マイナス0.47%となる。現在世界3位のGDPは4位と、中国と米国の約6分の1の規模となる。一人あたりGDPは世界18位で韓国(14位)に抜かれる。
▼日本のwellbeingはどの程度なのでしょうか?「GDPよりwellbeingが大切」などと言うと、文化人のきれいごとという気がして気持ち悪いと思ったのですが、よくよく読んでみると、いわゆる「生産性」さえ上げればいいというGDP信仰よりはまともな理論のように思えてきます。

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3)中国:盲目の活動家の肩にのしかかるもの

中国の盲目の人権活動家、陳光誠氏をめぐってアメリカと中国の関係がおかしなことになっていることが大きな話題になっており、5月5日付のThe Economistが社説のトップで取り上げています。イントロは
  • 盲目の活動家をめぐって錯綜する話が(米中という)二つの超大国にとって難しい問題を投げかけている。
    The disputed story of a blind activist raises difficult questions for both superpowers
5月3日付の毎日新聞のサイトはこの事件を次のようにまとめています。
  • 山東省出身の陳氏は幼少期から目が不自由だったが、独学で法律を学び、一人っ子政策のために地元当局が中絶を強制している実態を告発した。2010年から自宅軟禁が続いていたが、4月22日夜に脱出。同26日に北京の米大使館に保護され、5月2日に市内の病院に移った。
The Economistは、陳氏がアメリカへ行くなり、中国にとどまって正常な生活を送るようになるなりして、何らかの形で事態の収拾が図られて、うまくいけば収束することになるだろうが、この事件によって三つの重大な疑問が提起されたとしています。

直近の疑問。在北京のアメリカ外交官はアメリカ行を望む陳氏の希望を却下したのか?外交官たちが、「悪いようにはしない」という中国の外交当局の言葉をそのまま信用したのだとしたら、アホ扱いされることになるであろうし、活動家の安全よりも米中戦略・経済対話の方を優先させたのであれば悪者扱いされる。
  • クリントン国務長官は、陳氏が「自らの選択でしかもアメリカの価値観を反映するような方法で」大使館を去ったと豪語した。彼女の言葉は今年の大統領選挙で徹底追及されることは間違いない。
    Mrs Clinton boasted that Mr Chen left the embassy “in a way that reflected his choices and our values”. Her words will undoubtedly be scrutinised in this year’s election.

あとの二つの問題はいずれも陳氏の国である中国自体に関係しているけれど、アメリカの大統領選挙などよりもはるかに深い問題に関わっている。一つは中国がこれまでほどには対米関係を最優先事項にする必要性を感じなくなっているのではないかということ。過去にも米中の衝突に近いような事件はあったけれど、これまでは大切な貿易相手国であり、中国自体が豊かになるための資源としてのアメリカ、世界の警察官としてのアメリカの顔を立てるというやり方をしてきた。

しかし現在では中国は経済大国であり、世界に占める重みも昔とは違う。中国内の強硬派の中には、アメリカは経済危機や国内における政治的分裂によって挫折した国であるという見方をする部分も出てきている。そんなアメリカなんて大したことないということで、中国当局が陳氏に処罰を加えたりすると、オバマ大統領にとっては屈辱的なことになる。そうなると米中関係は「勝利感いっぱいの中国(a rampant China)」と「傷つき、猜疑心いっぱいのアメリカ(a wounded, suspicious America)」という二大超大国が対立する構図になってくるというわけです。
  • それは米中だけでなく世界にとってもひどいことになる話なのだから、両国とも事態収拾に大きな努力を払うべきである。
    It would be a terrible outcome for both superpowers and for the world. They should strive to patch things up.
今年は中国で権力移譲が行われる年です。中国をどのように運営していくのかが大きな話題になる年であり、そのことにこの事件がどのように絡んでくるのかというのが、The Economistのいう三つ目の問題です。毛沢東時代から経済開放・経済成長の時代までの長い間、中国人の大半は生活の向上を追い求めることで精いっぱいであり、法の支配の大切さなどということには注意を払ってこなかった。ましてや障害者を始めとする社会的な弱者などは無視されるか、後回しにされるか、踏みつけにされるかという扱い受けてきた。

しかし経済成長がかつてほど急速ではなくなる一方で、政治腐敗、地方住民の怒り、都会の人々が手に入れた自由・・・これらの事情によって中国共産党は「法の支配」を徹底すること、特に腐敗している地方の幹部たちの追及を進めるということを進めることを迫られているとThe Economistは指摘しています。

そのことは共産党にも分かっているのですが、法の支配を徹底させようとすると、党の力が弱くなり、さまざまな特権を放棄せざるを得なくなるというジレンマに陥る。共産党は党の力が弱体化することなく、しかも法の支配を確立するということ、二兎を追って二兎を捉えるようなことを望んでいるわけですが、陳氏の事件を見てもそのようなことが可能なのかという疑問が出てくる。
  • 陳氏が入院している病院のすぐ近くで外交官と政治家が夕食を共にしている間にも、法の支配の確立という重荷がベッドに横たわる陳氏のか細い双肩に重くのしかかっていると言える。しかしながらそれは中国の将来にとってとてつもなく大事な事柄なのである。
    It is a heavy burden to be resting on the frail shoulders of a man lying in a Beijing hospital bed as the diplomats and politicians dine together a few blocks away. But it matters enormously to China’s future.
とThe Economistの社説は訴えています。

▼陳光誠氏がBBCに語ったというインタビューがサイトに出ています。例えばアメリカ大使館を退去したことについては次のように語っています。
  • 私がアメリカ大使館を去ったのは約束を守るためだ。(中国当局は)市民としての私の権利を保障すると約束したのだ。しかしながら私の知るところによると私の家族が残酷な扱いを受けているとのことだ。私の携帯電話は昨夜カットされた。これらはいずれも問題なのだ。
    I left the US embassy in order to abide by the agreement. [The Chinese authorities] had promised to guarantee my rights as a citizen. However, I have now learnt of the cruel treatment my family suffered, and my mobile phone was cut off last night. I think these are all problems.
▼最初の「約束をまもるため」(in order to abide by the agreement)というのが、誰との、どのような「約束」のことを言っているのか分かりません。
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4)美耶子のK9研究:能動的な学びの世界

2年前に現地の学生としても体験した(その時はSAPという呼び方ではなく、Assignmentという呼び方でした)この種のレポート提出は、かなり苦労をさせられましたが、提出する学生の側からみても採点する教師の側から見ても、自分(またはその学生)が実際にこの単元の内容をどの程度本当に咀嚼して理解できたかを判断するためには、極めてよく考えて作られたやり方のように思います。このやり方が学生にとって更にメリットだと思えるのは、自分がどの部分が良く解っていないかに気付きやすいので、これを作成する過程で教師から言われなくてもCoursebook以外の文献を必然的に読まざるを得なくなるという点です。

つまり極めて能動的な学習姿勢が身に付くということ。もう一つ、これはもっと広い見地から教育的効果とも言えると思うのですが、「何かについて自分の理解したことを然るべき長さの文章で他人にも解り易く述べる(発表する)」ための訓練として、この種の課題は非常に良い刺激を与えてくれるということです。今思い出してみても、一緒に学んだ英国の若者たち(大体高校を卒業した年齢)は、いつも何かしらのAssignment提出を抱えた学生生活を送っているので、文章を書くこと、何かについてまとめること、自分の知識を他人に伝えることなどが、日本の若者に比べて上手くなるはずだと思わされたことです。

今回Distance Learningのスタート以来、私が提出したSAPはModule1とModule2の二つについてですが、因みにその中で学生に与えられる課題は二つの形態を取っています。一つはThe following questions require only short answers (a few words or sentences)という注意書きが付けられている、いわゆる普通のQ&Aタイプのもの。例えばWhat is a nephron?(ネフロンとは何ですか?)という類の問題。もう一つは
  • Describe the similarities and differences between dogs and grey wolves, in terms of both their physical structure and behavior. (max 750 words)<イヌと灰色オオカミの肉体構造上の及び行動上の類似点と相違点について750語以内で述べよ>
    とか
  • Describe how a dog receives sensory information from its environments, for example, when someone throws a ball for the dog to retrieve. Describe the processes involved in the nervous system when the dog detects the ball, and then responds by running after it. Include details of what happens to the senses, the neurons, brain, and muscles.(maximum 750 words)<イヌがどのように自分の感覚器官に訴える周囲からの情報を受け取るのか、例えば誰かがそのイヌにボールを投げて取って来るように言った場合、イヌがボールを認識し、その後そのボールを追いかけて走るという行動を取る際に起こる神経系統が係わるプロセスについて、感覚器官・ニューロン(神経細胞)・脳・筋肉に何が起こるのかを詳しく述べよ>
という“Describe・・・”という形態の質問で始まるものです。

この二つ目の形態で出された課題に対して、どのような書き出しで、どこから始め、何をどこまで盛り込むかは、学生自身に任されていることになります。まずこの構成を考えることも、ものを考えるよい訓練になります。それから自分の書いた文章が論旨に飛躍がなく、説得力があり、誰にでも理解してもらえる流れになっているか、もちろん文法的な間違いや誤字がないかどうかをチェックするために何度も読み返すので、自分の書いたものを客観的な頭で分析・解釈・評価する態度が身に付くようになります。

SAPの場合は全部のModuleが終わった段階で受けるDiplomaテストの準備のためという位置づけなので、少しAssignmentとは違うのですが、私が行った英国のCollegeのAssignmentの場合は面白いことに、始めから学生は自分の評価ランクを自分で選べるという仕組みになっていました。そのランクは3段階の、Pass・Merit・Distinctionとなっていて、日本で言うところの「可」「良」「優」と同じようなものなのですが、全く違うのは「私はPass(可)という評価を貰えば充分だ」と思えば、その分の課題についてのみ提出すればよいというところです。チャレンジ精神が旺盛な学生にはMeritやDistinctionというより難しい課題に取り組む選択の自由が与えられているというやり方は、教師側の一方的な判断、若しくはどの学生も一様に「点数」という一見公平に思える基準で評価されてしまうやり方よりも、フェアという気が私にはしました。そして、確かにMeritやDistinctionで出されている課題というのはちょっとやそっとの勉強量ではとても書けそうもないと思える、実に良く出来たより広い視野に基づいて調べなければならないような難しい課題であったので、そこまで対応出来る学生であればより高い評価を貰えるのも十分納得できると、学生達にも思えるものだったのを覚えています。

私はこのようなAssignmentを英国でかなりこなして来たお陰で、今やっているDistance LearningのSAPの課題に対する苦痛感も随分少なくて済んでいるのではないかと思っています。そして学んだことを記憶することが目標になっている試験のやり方よりも、自分の言葉で記述させる試験の方が、それに伴って磨かれる様々な能力(副産物)は明らかに多いのではないか。と同時に「世界の舞台で自分の意見を述べられる日本人が少ないと言われるのは、英語力の問題以前に、日本人がそういう教育をされていないからではないか・・・」とも思えるのですが・・・。

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5)ソシアルメディアと既成メディアは何が違うのか

 
福島の原発事故に関する「民間事故調の報告書」について何度か紹介しました。今回もこの報告書が発端なのですが、報告書そのものではなく、そのフォローアップのような部分が話題です。むささびジャーナル237号でも触れたのですが、報告書の中で菅さんがあまりにも細かいことまで口出しをしていたとされる件に触れて次のように書かれた個所があります。
  • 自分の携帯を取出し、「必要なバッテリーの大きさは?縦横何m?重さは?ということはヘリコプターで運べるのか?」などと電話で担当者に質問し、居並ぶ秘書官らを前に自身で熱心にメモを取っていた。こうした状況に、同席者の一人は「首相がそんな細かいことを聞くというのは、国としてどうなのかとぞっとした」と述べている。
報告書のこの部分の「ぞっとした」を取り上げて「だから菅が悪かったのだ」という報道が非常に多かったようなのです。これも前々回紹介したことですが、この「ぞっとした」という発言をした「同席者」が報告書では名前が出ていないけれど、実は内閣審議官・下村健一という人であり、彼はその後自分の発言が報告書では誤って伝えられているとして自分のツイッターで、
  • 私は、そんな事まで自分でする菅直人に対し「ぞっとした」のではない。そんな事まで一国の総理がやらざるを得ないほど、この事態下に地蔵のように動かない居合わせた技術系トップ達の有様に、「国としてどうなのかとぞっとした」のが真相。総理を取り替えれば済む話、では全く無い。
と主張している。確かに報告書とツイッターでは下村さんの発言の意味が全く違う・・・と、ここまでが237号だった。

今回紹介したいのは前澤猛さんというジャーナリストが書いた「『民間・原発事故報告書』」 と『下村発言』 への疑問」という記事です。前澤さんもこの下村審議官のツイッター発言を取り上げているのですが、私などが考えなかった問題を提起されており、前澤さんのエッセイを読んで、私、なるほどと思ってしまったのであります。
  • 残念なのは、報告が意図したかどうかにかかわらず、福島原発惨事の際の重要な政策決定過程の評価にかかわる部分が、 匿名の人物の発言に大きく依拠していることだ。
と前澤さんは言っています。上に挙げた下村審議官にしても、報告書では「同席者」と書かれているのですが、証言の内容(「首相がそんな細かい・・・ぞっとした」)は、菅さんの事故対応を評価するうえで非常に大切な部分の一つとなっている。報告書だけを読んだ人は、この「同席者」が菅さんのやり方に批判的であったとしかとりようがないはずです。

前澤さんによると、このような報告書を作ったり、記者が報道をする場合、取材(調査・報告)する側と取材される側の間で、匿名にするか実名を使うか、証言内容をどのように引用するのかなどについて入念な打ち合わせをするのが「ジャーナリズムの初歩」なのだそうです。今回の場合、報告書で匿名を使ったということは下村さんがそれを希望したからですよね。なのにその本人が名乗り出て「自分の発言とは違う引用のされ方をしている」と文句を言っている。その意味で非常に変わったケースなのですが、前澤さんは、
  • (下村さんのツイッター発言によって)この重要な報告書自体の意図や信頼性そのものが崩れつつあり、関係者による早急な経緯の公表と事実の確定が待たれている。
と言っている。これも尤もな意見ですよね。

前澤さんはさらに、下村審議官がツイッターという「ソーシャル・メディア」を使って自分の言い分を明らかにしようとしていることについて
  • ソーシャル・メディアの存在と効用は、広く認識されてきたとはいえ、なぜ、下村氏は、公の場、あるいは既成メディアをも通じて、 自らの見解や訂正を主張しないのだろうか。事実証明をソーシャル・メディアにのみ任せていいのだろうか。
と疑問を述べています。

前澤さんのエッセイの中で私が最も面白いと思ったのはこの部分なのであります。前澤さんのいわゆる「公の場」が具体的にどのような「場」であるのかよく分からないけれど、「既成メディア」というのは普通の新聞やテレビのことであり、(例えば)記者会見をやって自分の意見を述べるということですね。下村さんはなぜそれをやらないのか?前澤さんは、
  • 「下村氏は、世論を意識して匿名発言をしたが、 逆効果となり、責任逃れをしている」 といううがった見方も成り立つのではなかろうか。
と言っています。ここの部分はいまいちよく分からない。なぜ「世論を意識」すると「匿名」になり、ツイッターで自己主張をすると「責任逃れをしている」 ことになると前澤さんは考えているのか?

▼下村審議官の心のうちなど私には分かる由もないけれど、「事実証明をソーシャル・メディアにのみ任せていいのだろうか」という前澤さんの問題提起は思考のためのポイントとして非常に興味深いと思うのであります。FacebookとかTwitterのようなソーシャル・メディアで発言するのと、「既成メディア」の上で何か言うのと、本質的な違いはあるのか?あるとすればそれは何か?ということです。

▼発言者の言葉がそのまま伝わるのか、記者という第三者の言葉を通じて伝わるのかというのが本質的な違いなのだろうと思うのですが、発言の受け手である読者や視聴者はどちらを信用するべきなのかという問題がある。今回だってネットを読んでいて下村さんのツイッター発言に出くわすことがなかったら、私は民間事故調の取材者の書いたものを信用したはずであるし、それを伝えるメディアの言うことを信じたことでしょう。しかし現に私は下村さんのツイッターを眼にする機会を得てしまった。そうなると私などは彼のツイッターの方を信用してしまうでしょうね。何せ「本人の発言」なのだから!

▼それにしても、なぜ下村審議官は自分の意思伝達の手段として「既成メディア」ではなく、ツイッターという手段を選んだのでしょうか?新聞・テレビ・ラジオのようなメディアを信用せず、自分の発言が歪曲されてしまうかもしれない、と危惧した?前澤さんは「事実証明をソーシャル・メディアにのみ任せていいのだろうか」と言っている。つまり下村さんはツイッターだけでなく、新聞やテレビでも発言をするべきだと言っているのですよね。ツイッター上の発言よりも「既成メディア」における発言の方が信用できる、と前澤さんは考えているってこと?もしそうだとすると、なぜそのように考えるのか?本人の言うことより、XX新聞やXXテレビの報道の方が信用できるということ?

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6)ペンは政治家より強い?
 
 
新聞記者が王室関係者や殺された女の子の携帯電話を盗聴していたことが発覚して大問題になったのは昨年(2011年)7月のことで、むささびジャーナル219号でお知らせしました。それから半年後の2011年11月末にLeveson判事(Lord Justice Leveson)を委員長とするメディア関係者の倫理に関する公聴会(Leveson Inquiry)が始まり現在も続いています。元々はルパート・マードックという人物が所有していたNews of the Worldという大衆紙による盗聴事件がきっかけであったのですが、この公聴会ではもっと幅広く、新聞の倫理についてのディスカッションが行われています。例えば新聞記者と警察の関係などです。

現在の話題はメディアと政治家の関係で、つい最近(4月25日)ルパート・マードックを証人として招き、彼の会社が所有する新聞と政治家の関係について質疑応答が行われました。その速記録を読むと英国の政治メディアの姿が浮かび上がって非常に面白い。4月28日付のThe Economistの政治コラム、Bagehotがこの公聴会を取り上げて評論しています。題して"The pen is mightier: Why the British press holds such sway over politicians"(ペンは強し:英国の新聞が政治家を揺すぶる力を持っている理由)。

公聴会ではマードックと政治家の関係についていろいろな角度から追及されています。

1992年の英国の選挙は労働党の圧勝という事前の予想を覆してジョン・メージャーの保守党が奇跡的な逆転勝利を収めた選挙として語り草になっているのですが、保守党勝利を伝える大衆紙、The Sunの見出しもまた語り草になっている。
  • It’s the Sun wot won it 
    勝ったのはサンだ!
というわけですが、The Sunはマードック所有の大衆紙で、それまでは保守党支持の立場を保っており、92年の選挙でもニール・キノック率いる労働党をこき下ろす報道を続けてメージャーの勝利に大いに「貢献」したことになっている。元々サッチャー信者であったマードックが保守党びいきであることは大して不思議ではないのですが、この選挙でリーダーシップがないなどの理由で全く不評だったメージャーの保守党をThe Sunが熱烈に支持したのは、労働党のマニフェストで「メディアの集中所有について独占・合併委員会による公聴会を直ちに立ち上げる」ことを謳っており、それはまさにマードック・グループによるメディア企業の買収活動を規制することを意図していたからであるとされています。

The Sunと政治家の関係といえばもう一つ、欧州通貨交換制度(Exchange Rate Mechanism)からポンドが脱落するという危機に見舞われていたときに、首相であったジョン・メージャーがThe Sunの編集長(Kevin MacKenzie)に電話入れて、翌日の朝刊でどのような記事にするつもりなのかをたずねたことがあった。それに対するMacKenzieの返事は
  • 教えてあげましょう、首相。いいですか、いまアタシのデスクの上にクソがいっぱい詰まったバケツが二つあるんですよ。アタシはね、明日の朝、その二つともアンタの頭にぶっかけるつもりなんですよ。
    Let me put it this way, Prime Minister. I have two buckets of shit on my desk and tomorrow morning I am going to empty both of them over your head.


    だった。
実はこの発言をしたMacKenzie元編集長もLeveson公聴会呼ばれ、本当にそのような発言をしたのかを問い質されて、あっけらかんと認めていた。悪いことをしたとは全く思っていないようだったのですが、自分の国の首相という人物に対してあのような発言をした人物がクビにもならずに編集長を続けていたこと自体が、英国における政治家とメディアの関係が普通でない(pretty unusual)ことを物語っている、とThe Economistは言っている。
  • そのことは、新聞が民主主義を脅かす力になっているということを意味するのだろうか?
    Does that mean that the press wields democracy-threatening power?
とThe Economistは問いかけながらも「答えは単純ではない」として英国におけるメディア(新聞)市場の特殊性(oddity)を挙げています。

アメリカではマードック経営のNews Corporationは主要メディア企業5社の一つにすぎないが、英国におけるマードックのメディア企業は「巨人」(titan)とでもいうべき存在であると言います。The Sunの発行部数は260万ですが、人口6000万の国における260万を人口比率でアメリカに置き換えると一日に1300万部が売れる新聞ということになる。それほどとてつもない大きさであるということです。英国で発行されている日刊7紙の発行部数は、フランス最大の全国紙の部数よりも大きいのだそうです。

英国の新聞には昔から金持ちや権力者をいたぶってみせる習慣のようなものがある。政治家に対してもWho does he think he is?(あいつは自分を何さまだと思ってるんだ)というような横柄な態度で臨みがちである。で、政治家の方も「政治家に残酷な新聞の存在は民主主義には欠かせない」と口では言うけれど内心は歯ぎしりをしている(through gritted teeth)のだそうです。

マードックと英国政治の関係で有名なのが1995年に労働党の党首となったトニー・ブレアがオーストラリアで行われたNews Corporationの会議に招かれたことで、それまでは反労働党であったはずのマードックの招きに応じたというので、労働党内でも左派勢力からは大いに批判を受けた。が、このお陰でブレアの労働党はThe Sunの支持を受けて一大ブームを巻き起こすことになるわけです。この招待を受け容れたことについてブレアは回顧録の中で“You go, don’t you?”と言っている。「誰だって行くよね、でしょ?」ということです。

ブレアの後を継いだブラウン首相はマードックから「次なる選挙では保守党を支持する」と聞かされてカンカンに怒り、"Well, your company has declared war on the government. We have no alternative but to declare war on your company"(あんたの会社が政府に宣戦布告をしたのだ。我々としてもあんたの会社に戦争を宣言するしかないな)と電話で怒鳴りつけたとされています。ブラウンはこれを否定しているのですが、公聴会でマードックはあのときのブラウン首相について "I did not think he was in a very balanced state of mind"(心のバランスがとれた状態ではなかった)と証言しています。

The Economistはまた、英国における政治とメディアの関係について、ヨーロッパ諸国との比較で変わっている部分を挙げています。欧州諸国の政治の場合、極右と極左の勢力が中間票の取り合いをするという構図になっているケースが多い。そのような国では新聞は規模(部数)が小さく、意見も中間的でつんとすましたような(prim)ものが多い。英国の場合は反対で、政治は二大政党が中心に座っており、政策も極右・極左というほど極端に異なるわけではない。しかし新聞はかなり政党色がはっきりしていて政策についての激論は新聞の世界で声高に展開される。

The Economistによると、英国では政党のリーダーがジャーナリストたちと過ごす時間が長すぎたとのことで、政治家がメディア界のボスたちと会う回数をもっと少なくすること、会う場合でも常にオープンであることが必要だとしている。
  • そうした改革はとっくにされていなければならなかったものである。ジャーナリストと政治家は真の友人には決してなれない間柄なのである。下っ端の記者と国会議員たちにはそのことが分かっている。特ダネを手に入れればお互いに敵同士なのだ。ボスたちはそのことを余りにも長い間忘れていたようである。が、もうそんな時代ではなくなっている。
    Such a change is overdue. Journalists and politicians can never be truly friends. Lowly reporters and MPs always knew this: given a big enough story, each will turn on the other. For too long, their respective bosses seemed to forget. Not any more.
新聞の発行部数の比較ですが、英独仏における日刊紙(いわゆる高級紙)のトップ3(部数)をネットで調べてみたら次のようになっていました。
  • フランス(人口6200万)
    1)フィガロ:34万部
    2)ル・モンド:32万部
    3)リベラシオン:14万部

    ドイツ(人口8200万)
    1)南ドイツ新聞:44万部
    2)フランクフルター・アルゲマイネ:37万部
    3)ディ・ヴェルト:20万部

    英国(人口6000万)
    1)デイリーテレグラフ:63万部
    2)タイムズ:50万部
    3)ガーディアン:27万部
▼なるほど人口比でいうと英国に比べてドイツやフランスの新聞は発行部数という点では小さいようですね。欧州大陸では新聞というものが普通の人たちの生活にどの程度浸透しているのか、私は知らないのでもう少し調べてみる必要がある。

▼ちなみに日本の新聞の発行部数は読売新聞(1000万部)、朝日新聞(800万部)、毎日新聞(390万部)などとなっています。日本の人口は1億2000万だから英仏の約2倍です。なのに新聞の部数は10倍をはるかに超えている。すごいと思いませんか?

▼もっと極端なのではないかと思うのがフィンランドですね。ヘルシンキを本社とするHelsingin Sanomatが唯一の全国紙なのですが部数はほぼ40万。一部の新聞を夫婦二人が読むとしても読者数は少なくとも80万ということになる。新聞社では読者数は100万と言っている。人口が500万とちょっとという国で読者数100万というのはすごい数字だと思いませんか?それとHelsingin Sanomatには競争相手がいない。20年ほど前まではUusi Suomi(新フィンランド)という全国紙があったけれど当時の不況のあおりを受けて倒産、それっきり全国紙はこれだけってことに。この新聞社のフィンランドにおける存在感はマードックの比ではないようです。ほぼ100万人が読んでいる日刊紙以外にテレビ局、ラジオ局、雑誌社まで所有している。

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7)どうでも英和辞書
A-Zの総合索引はこちら

space:スペース

いきなりですが文章を二つ読んでくれますか?
  • I am writing to introduce myself. My name is William Hague, British Foreign Secretary.
  • I am writing to introduce myself. My name is William Hague, British Foreign Secretary.
意味は「自己紹介しましょう。私の名前はウィリアム・ヘイグ、英国外相です」ですね。

二つの文章に違いはありますか?あります、一つだけ。myselfという単語の次にピリオド"."があってMy nameという言葉があるのですが、最初の文章の場合、ピリオドのあとのスペースはシングル、もう一つの文章はダブル・スペースになっている。それが違いです。

大した違いではない?確かに。ただ英国外務省の決まりとして、外務大臣の公式な書簡については、ピリオドのあとのスペースはダブルでなければならないのだそうです。ちなみにシングル・スペースのことはFrench spacingといい、ダブル・スペースはEnglish spacingと呼ぶ。

ダブルは面倒な気がするし、The Economistも含めた新聞や雑誌は大体においてシングル・スペースを採用しているのですが、文章と文章を明確に区切るという意味ではEnglish spacingのほうがいいかもしれない。
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8)むささびの鳴き声
▼いつも思うことですが、一つのむささびジャーナルを出してから次のものを出すまでの2週間には実にいろいろなことが起こるので、前回のものを出した直後に大きなニュースであったものが、いまではほとんど話題にもならない。今回の例は民主党の小沢さんが無罪になったという話題だった。無罪判決が出たのが4月26日、翌朝の新聞の社説を(見出しだけ)見ました。本当は中身も読むべきであるし、そうしようと思っていたのですが止めました。で、いわゆる全国紙の社説の見出しを列挙すると:
  • 毎日新聞:小沢元代表無罪 なお政治的責任は重い
  • 朝日新聞:小沢氏無罪判決―政治的けじめ、どうつける
  • 読売新聞:小沢氏無罪 復権の前にやることがある
  • 東京新聞:小沢元代表無罪 許せぬ検察の市民誤導
  • 産経新聞:小沢氏無罪判決 証人喚問で「潔白」示せ このまま復権は許されない
  • 日経新聞:無罪判決を「小沢政局」につなげるな
▼むささびジャーナルをお送りしている皆様の中でメディア関係の仕事をしていない方にお尋ねしたいのですが、あなたは新聞の社説を見出しだけではなく中身まで読むことあります?見出しをちらっと見るだけという人がいるとすると、私と同じです。なぜそうなのかというと、私に関する限り、社説なんて大体いつも同じようなものであるからです。どう同じなのかというと、「Aも悪いけれどBも良くない。この際よく話し合え」という類の語りが多いということです。毒ぬも薬にもならないということ。

▼インターネット時代になって、社説に関する限りどの新聞のものもタダで読めるようになってしまったので、各社の比較ができるわけですが、上に挙げた6紙の見出しを比べると、東京新聞だけが「検察」を批判し、日経だけが「こんなことでもめてないで、国会は消費税のような政策ディスカッションをやれ」と言っている。残り4紙は同じように小沢さんの「政治的責任」や「説明責任」の追及をやっている。何度も言ったことであるけれど、新聞の社説を書く人たちはなぜかくも「同じ」なのか?小沢さんが「政治責任」とか「説明責任」を果たすと、日本の何がどうなるというのか?(私に関する限り)小沢さんが有罪だろうが無罪だろうがどうでもいい。あの人が国会で「説明責任」など果たすよりも、消費税とか社会保障をどうするのかをディスカッションして欲しい。

▼東京新聞(中部地方では中日新聞)は出色であります。小沢無罪よりも、こんな裁判をやらせた検察に怒っている。東京新聞といえば4月27日付のコラム「筆洗」も「小沢無罪」を取り上げています。検察が偽造した捜査報告書を検察審議会に提出したことについて語っており、検察は検察審査会を利用して「自らは起訴を断念した政治家の命脈を絶とうとしたのではないか」と言っています。そして「筆洗」のコラムニストは「筆者は長く検察を取材してきた。特捜検察をおごり高ぶらせた責任を顧みなければならない、と自省を込めて書く」と言っています。若さを感じるのです、私は。

▼あっという間に初夏のような陽気になりました。寒いよりはましであります。関西電力管内の皆さま、東電管内の我々は昨年、計画停電なるものを経験しました。ちょっと不便ですが、死にはしません。長々と失礼しました。

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