musasabi journal

234号 2012/2/12
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美耶子の言い分 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
最近のニュースによると、今年は梅の開花が遅れているのだそうで、東京は2週間遅れで咲いたらしいですね。昨 年2月末のむささびジャーナルによると、ウチの近所は「梅の花が満開」となっているけれど、今年は未だ影も形もありません。よ ほど寒いということなのでありましょうか。

目次

1)即位60年:ノスタルジック・ペシミズム
2)イランの核開発:常識を疑おう
3)サッチャーさんに国葬は合わない?
4)報道の自由と暴走のはざまを行く
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声


1)即位60年:ノスタルジック・ペシミズム

今年はエリザベス女王の即位60周年というわけで6月ごろには大々的な催しが予定され、オリンピックと並んで英国中がお祭り騒ぎになるのでしょうね。即位60周年にからめて世論調査機関のYouGovが英国人の生活意識調査をやっています。設問は

▼Do you think Britain has changed for the better or worse in the 60 years since she acceded to the throne?(エリザベス女王が即位してからの60年、英国は良い方に変わったか、悪い方に変わったか?)

▼Do you think the quality of life for the average person in Britain has changed for the better or worse in the 60 years since she acceded to the throne?(エリザベス女王が即位してからの60年、平均的英国人の生活の質は良い方に変わったか、悪い方に変わったか?)

の二つです。最初の質問は英国全体についてであり、もう一つの質問は英国人の生活についてたずねているわけです。

で、答えはどうだったかというと、「英国全体」については43%が「悪くなった」と答え、「良くなった」は30%で「どちらでもない」が27%となっている。悪くなったとする人の方が多いのですね。それでは平均的英国人の生活の質はどうなったのかというと、「良くなった」が65%、「悪くなった」が19%、「どちらでもない」が11%となっている。

年代別に見ると、65才以上の人の72%が生活が向上したと感じており、「悪くなったという人」の18%をはるかに上回っている。でも「英国全体」については「良くなった」は27%で、「悪くなった」(55%)の半分しかいない。この人たちはエリザベス2世の60年間をすべて経験した人たちです。ちなみにエリザベス女王が即位した1952年がどういう年であったかというと、肉、バター、菓子などが配給制であり、堕胎も同性愛も違法、年間数千人の子供たちがポリオ障害になり、スモッグによる死者も出たのだそうです。死刑は存在したし、女性の国会議員は17人(現在は145人)だった時代であります。

YouGovのコメンテーターによると、英国人は、現在は過去より悪く、将来は現在より悪いと考える傾向が強いのだそうです。別の言葉でいうと「昔はよかった」と「先行き暗い」です。過去を愛し、未来を憂う・・・これがnostalgic pessimismというもので英国人特有の性癖なのだそうであります。

▼nostalgic pessimismは英国の専売特許ではありません。最近のテレビを見ていると、日本人も相当に過去好きですよね。

▼エリザベスが女王に即位した1952年(戴冠式は1953年)が、日本ではどういう年であったのかをネットで調べたら十勝沖地震、もく星号墜落事故、血のメーデーなどのほか、永谷園の「お茶漬け海苔」発売、硬貨式の公衆電話が登場などが出ていました。「お茶漬け海苔」というのはそんなに歴史があったんですか。それと1952年は、あの春日八郎の「赤いランプの終列車」が流行った年なんであります。

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2)イランの核開発:常識を疑おう

2月3日付のワシントン・ポストのサイトにU.S. officials concerned by Israel statements on Iran threat, possible strikeという見出しの記事が出ていました。核兵器の開発が疑われているイランに対してイスラエルの要人による対イラン先制攻撃を示唆する発言が相次いでおり、アメリカの政府関係者が心配しているという意味ですよね。例えば2月1日にイスラエルの Ehud Barak国防大臣が国内の防衛関係者を対象に行った演説の中で「イランの核兵器開発を阻止するための時間がなくなってきている」(Time is running out for stopping Iran’s nuclear advance)として、いますぐ対策を打つべきだという意味で「"あとから”では遅すぎる(later is too late)」と語ったのだそうです。Barak国防大臣の演説はヘブライ語で行われたのですが、later is too lateの部分だけは英語に切り替えた、とワシントン・ポストは伝えています。

ワシントン・ポストの見出し"U.S. officials concerned"(アメリカ政府関係者が憂慮している)というのは、核兵器開発を続けている(とされている)イランに対するイスラエルとアメリカの姿勢に亀裂が見え始めているということを言っています。先制攻撃も辞さずというイスラエルに対して「そんなことをしてもイランの核開発を遅らせることはできても止めることはできない」(might only delay, not end, Iran’s nuclear pursuits)というわけで、先制攻撃による中東の混乱の方がよほど怖ろしいとアメリカ政府は考えているとのことであります。

ワシントン・ポストの記事とは別の話ですが、英国The Independent紙のRobert Fiskという中東専門のジャーナリストが1月25日付のサイトに”We've been here before”というエッセイを書いています。「いつか来た道」というような意味ですね。Fiskによると"it suits Israel that we never forget 'Nuclear Iran'"なのだそうです。つまり欧米が核保有国としてのイランの脅威を忘れないことはイスラエルにとって好都合だということであり、イスラエルから発せられる言葉は眉に唾をつけて聞いた方がいいと言っている。

例えば最近、イスラエルのペレス大統領が「イランは核兵器開発の最先端を行っている」(Iran is on the cusp of producing a nuclear weapon)と発言しているけれど、今から16年も前の1996年に、首相だったペレスが全く同じ発言をしており、ナタニエフ現首相などは1992年に「イランは1999年までに核爆弾を所有するだろう」(Iran would have a nuclear bomb by 1999)とまで言い切っている。1999年といえば13年前です。つまりRobert Fiskによると、イスラエルの先制攻撃論などはSame old storyとなる。いつものこと・・・ってわけ。

そもそもイランの核武装を望んだのは、あのパーレビ国王(The Shah)なのだそうですね。1979年のホメイニ師らによる革命によって追放されてしまったあの人です。The Shahは口癖のように「アメリカもソ連も核爆弾を持っているではないか」(the US and the Soviet Union had nuclear bombs)と言っており、欧米ではどの国もこれに異を唱えなかった。それどころかThe Shahの核願望に応じてはせ参じたのはヨーロッパであり、イランのBushehr核施設を作ったのはロシアではなくドイツのシーメンスだった。

で、The Shahによる独裁体制を崩壊させたホメイニ師は一切の核開発を中止させたのだそうです。理由はそれが「悪魔のやること」(the work of the Devil)だからだった。それがイラクとの戦争でイラク側が毒ガス兵器を使用するに及んでイランもthe work of the Devilを再開せざるを得なかった、とFiskは言っている。

というようなことは西側のメディアは一切伝えず、歴史の記録からも削除されてしまっており(deleted from the historical record)、狂信者のアフマニネジャドのような人間が核兵器という危険物に手をつけているのだから、イスラエルとしても自らの生存のために、欧米諸国の生き残りのために、そして民主主義の保護のために攻撃しなければならないかもしれない・・・ということしか言われないとFiskは批判しています。


▼Robert Fiskという人のエッセイは大体において、メディアも含めた欧米の「多数派」に対する疑いの眼のようなものによって貫かれています。特にどちらの肩をもつというわけではなく、このエッセイもイランの言っていることを支持しているわけではない。ただ「イランが本当に核兵器開発を行っているのかどうかの事実を我々は知らないではないか」(In fact, we don't know that Iran really is building a nuclear weapon)というわけで、それにもかかわらずイランに対する制裁を云々するのは間違っていると言っている。

▼Fiskも触れているけれど、イラク戦争の際に云々されたサダム・フセインが大量破壊兵器を隠し持っているという事実ではない情報に基づいて戦争を仕掛けたブッシュのアメリカとブレアの英国がイランについて同じことをやろうしているように見える。彼のエッセイは「制裁でもなんでもやったらどう?ピエロでも送り込んでさ」(Bring on the sanctions. Send in the clowns)という言葉で結ばれているのですが、私(むささび)の眼を引いたのはむしろ書き出しの次の文章でありました。

Turning round a story is one of the most difficult tasks in journalism - and rarely more so than in the case of Iran.
常識を覆すというのはシジャーナリズムにおいて最も難しい作業の一つである。イランの場合がまさにこれにあてはまる。

▼The Independentのサイトに掲載されたFiskのエッセイはここをクリックすると読むことができます。

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3)サッチャーさんに国葬は合わない?

Meryl Streepという女優が主役をつとめるThe Iron Ladyという映画が英国のメディアで話題になっています。あのサッチャーさんの人物像を描いたものなのですが、サッチャーさんは1925年生まれの86才、彼女が首相の座を降りてから20年以上経っており、いまでは認知症が伝えられています。

ちょっと前(昨年12月22日)のDaily Telegraphによると、サッチャーさん死去の場合は国葬にするという話が進んでいるのだそうです。これについて政治コメンテーターのPeter Oborneが国葬反対のエッセイを書いています。「マーガレット・サッチャーはありとあらゆる栄誉に値するが、国葬は例外である」(Margaret Thatcher deserves every honour - apart from a state funeral)と言っているのですが、Telegraphという保守系の新聞のコメンテーターがなぜサッチャーの国葬に反対なのか?

かつてウィンストン・チャーチルが死んだときは国葬だったのですが、Oborneによると、国葬という扱いを受けるのは「英国全体を代表する」(to represent the nation as a whole)人物である必要があり、特定の宗派やグループを代表するだけではダメなのであります。このようなカテゴリーに属する人たちとしてまず挙げられるのは王室です。それ以外はというと軍人がある。ネルソン提督、ウェリントン公は国葬だったそうです。次に来るのが賢人(brilliant men)で、アイザック・ニュートンやチャールズ・ダーウィンは国葬だった。

政治家はどうか?Oborneによると、過去200年で国葬扱いを受けた首相としては、チャーチル以外にArthur Wesley(ウェリントン公のこと)、Vicomte Palmerston、William E. Gladstoneがいる。チャーチルの場合はヒトラーとの戦いを指導した英国全体のヒーローだから文句はない。Arthur Wesleyは首相としてよりもナポレオンを破った軍人としての栄誉であって首相としての功績が認められたのではない。PalmerstonとGladstoneは引退したときはかなりの高齢者で、党派性の薄い首相だった。

で、サッチャーさんはどうか?英国を変革したという意味では偉大な首相であることは間違いないが、首相として偉大であったというだけでは不十分(her greatness as a prime minister is not enough)であるとOborneは言っています。そもそも彼女のどの部分が「首相として偉大」であったのか?

She transformed Britain very largely for the better during her great premiership of 1979-1990.
1979年~1990年の首相の任期中、彼女は英国を変えた、それも殆どすべていい方向に変えた。

とOborneは言っているのですが、これだけだと漠然としていてよく分からない。彼女は任期中に「あなたは英国の何を変えたのか?」と聞かれて「全部変えた」(I changed everything)と答えたのは有名なハナシですが、これでも、特に外国人には何だか分からない。私(むささび)の考えによると、サッチャーさんはそれまで英国の支配層(establishment)がよしとしてきたことをすべて変えてしまった。政治の世界ではコンセンサス政治ではなく対立・対決(confrontation)の政治を行ったし、社会通念では「欲張りは悪くない」(nothing wrong about greed)という考え方を推し進めた。

まあいろいろあるわけですが、サッチャーさんがチャーチルと異なるのは、彼女がこの世を去っても悲しまない人々が結構いるということです。Peter Oborneによると、北イングランドの炭坑地帯の地方紙にはいまでも如何にサッチャーと戦ったかということを語る記事が掲載されるのだそうです。つまりサッチャーの強硬路線をいまだに恨みに思っている人がいるということです。その人たちにとってサッチャーさんの国葬は屈辱以外の何物でもないわけです。そのような人を国葬扱いすることだけは止めた方がいいというのが、サッチャー礼賛者であるPeter Oborneであるわけです。

▼チャーチル国葬の理由は第二次大戦におけるリーダーシップと勝利でしょう。確かに首相ではあったけれど戦争内閣の首相であったのだから、普通とはちょっと違う。事実上の軍人みたいなものですからね。彼はもう一度首相になっている(1951年)けれどこれといった業績はない。

▼ウィキペディアによると明治以来の日本の首相で国葬されたのは次の人々だそうです。

伊藤博文(1909年11月4日)
山県有朋(1922年2月9日)
松方正義(1924年7月12日)
西園寺公望(1940年12月5日)
吉田茂(1967年10月31日


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4)報道の自由と暴走のはざまを行く

ルパート・マードックというメディア王が経営していたNews of the Worldという大衆紙がアウト(廃刊)になったいきさつについてはむささびジャーナル219号で紹介されていますが、あれからリーブソン(Leveson)という判事を委員長にしたプレスの取材・報道に関する公聴会が続けられていることは紹介していないと思います。昨年11月に始まってこれまでに約200人が証言しており、メディア報道の被害者はもちろんのこと、メディア側の関係者も証言者として参加している。中にはハリー・ポッターの作者であるJoanne Rowlingが自分の娘の学校カバンの中に新聞記者からのメモが入っていたときのことを証言したりしている。

2月4日付のThe Economistがこの公聴会について伝えており

It is no surprise that the press often treats people callously. But the sheer volume of complaint has turned ordinary tales of cruelty into a persuasive indictment of the way the print media behaves. Worse stories are likely to come.
プレスが時として人々にひどい仕打ちをすることについては驚かないが、(この公聴会で示された)不満の量だけをとってみても残酷物語というよりも起訴に値するプリント・メディアの振る舞いだと言える。これからさらに酷いストーリーが出てくる可能性が高い。

と言っています。公聴会の公式サイトではpressという言葉が使われています。この言葉は普通は新聞や雑誌のような印刷媒体を意味します。この公聴会がテレビ・ラジオからインターネットのような幅広い媒体(メディア)をも対象にしているのかどうか、サイトだけでは分からないのですが、公聴会の発足が新聞記者による盗聴事件であったのだから対象は主として印刷媒体業界なのであろうと推察しています。The Economistによると、英国では放送業は報道の中立性(impartiality rules)を守らなければならないという規制があって、これに反すると放送認可を取り消されてしまうのだそうで、その意味では新聞に対する規制は放送に対するものに比較すると「はるかに弱い」(far less controlled)のだそうです。

プレス報道の「被害者」として世界的に共通しているように見えるのが政治家ですが、最近では「政治家もプレスに対する怖れをなくしている(lost much of their fear)」ように見えることから、新聞が政治の力によって「自律」(self-regulation)の伝統をギブアップせざるを得なくなるのは「ほぼ確実」(almost certain)であるとThe Economistは言っている。問題なのは

Can the press be made less poisonous without making it toothless?
毒を抜かれたプレスは歯が抜けたプレスということになるのではないのか?

という点であると言っている。プレスによる取材活動が規制されるということは、新聞から「鋭い批判」というキバを抜くことに繋がるのではないか?ということですね。英国の場合、新聞にはDaily Mirrorやthe Sunのような大衆紙とThe TimesやGuardianのような高級紙の2種類があり、大衆紙によるスキャンダル報道を規制することがマジメなジャーナリズムの規制にまで及んでしまうのではないかとThe Economistは言っています。

プレス報道による被害を防ぐために三つのアクションが考えられている、とThe Economistは言っています。即ち新聞の市場を管理する、関連法の改正、プレス規制の強化の三つです。このうちの新聞の市場管理ですが、これは一つの新聞だけが余りにも巨大化してしまうとそれが報道の暴走に繋がるという考え方です。マードックのように大衆紙+高級紙+テレビまで所有するメディア帝国の存在を規制するということです。しかしこの考え方を許してしまうと、優れたメディアやプレスの成長までもが抑えられてしまうことにつながるので、最悪の選択であるとThe Economistは言っている。

プレスに関する法改正には二つの側面がある。一つは取材対象のプライバシー保護であり、もう一つは名誉毀損の問題です。取材される側のプライバシー保護についてですが、プライバシー保護が報道の自由に繋がらないということはあり得るのかというのがThe Economistの疑問です。英国にはすでに98年人権保護法(1998 Human Rights Act)というのがあり、何がプライバシー侵害にあたるのかについてこれ以上文章化するより裁判官の判断に任せた方がいいと言っている。

名誉毀損に関する法律は(libel law)「大いに改革の余地がある」(needs reform)とのことです。現在の法律では報道がらみの名誉毀損の裁判になると、圧倒的に原告が有利なのだそうで、公共の利益のために報道するというジャーナリスト側の主張も考慮に入れるような改正が必要であるということです。

最も重要なのはジャーナリストの振る舞いをどのように規制するのかということである、とThe Economistは言っているのですが、それは政府がかかわるべき問題ではないとも言っている。電話盗聴事件を契機にPress Complaints Commission(報道に関する苦情処理委員会)という新聞側の自主組織が全く役立たずであるということが分かってしまっているけれど、かといって政府が報道規制に関わるのは言論の自由の侵害(invasion of free speech)だというわけです。

ではどうするのか?というわけでThe Economistが主張するのは

a much tougher, independent regulatory body to which no publisher is forced to belong, but to which most still wish to belong.
これまで以上に強力な非政府・独立機関で、新聞社や出版社がこれに所属することを強制されはしないが、ほぼすべての新聞社が所属する気を起こすような機関

というわけです。The Economistさえも「無理強いはしないけれど、新聞社が所属したくなる組織」なんて不可能かもしれないと認めているのですが、新聞社側の人間を排除したかたちでの裁判所のようなものを作り、報道内容の正確さをチェックするだけでなく、謝罪の方法まで指示する権限を与えるというわけです。報道絡みの名誉毀損の裁判がある場合、まずこの報道裁判所が判決を下し、実際の裁判にあたっては報道裁判所の判決を考慮に入れることを義務付けるようにするとのことです。

▼最近のBBCなどによると、マードック傘下の大衆紙の代表格ともいえるthe Sunは姉妹紙で廃刊に追い込まれたNew of the Worldのように電話盗聴の疑惑は取りざたされていないけれど、取材過程において警察官にカネを渡したという疑惑で5人の逮捕者が出ているのですね。マードック氏はthe Sunのスタッフに対してThe Sun has a proud history of delivering ground-breaking journalism(The Sunは画期的ジャーナリズムを届けるという誇るべき歴史を有している)として、この新聞の発行は続けると約束するメッセージを伝えているのだそうです。

▼名誉毀損裁判に訴えられと報道する側が圧倒的に弱いというのが英国の実情なのですね。それが怖くてスクープ記事も書けないということですよね。むささびジャーナル232で紹介したDaily Mailによる殺人告発キャンペーンですが、この新聞で殺人犯扱いされた人間が実は無罪であった場合、Daily Mailはとてつもない賠償金を払わなければならないし、そのことは覚悟したと編集長が言っています。考えてみるとそれは当たり前ですよね。殺人者と決めつけられ、顔写真まで掲載された印刷物が100万枚も配布されるのですから。

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5)どうでも英和辞書
A-Zの総合索引はこちら

gatekeeper:ゲートキーパー

gatekeeperという単語をCambridge Advance Learner's Dictionaryという辞書に入れてみたら

a person whose job is to open and close a gate and to prevent people entering without permission

と説明されていた。門を開けたり閉めたりすることと、許可なしで(敷地内に)入ることを防ぐことを職業としている人・・・つまり守衛のことですね。

で、最近、内閣府が自殺防止運動のキャッチフレーズを「GKB47宣言!」としたことで関係団体から抗議され、「あなたもゲートキーパー宣言!」というコピーに変更したという「事件」がありましたよね。ゲートキーパーというのは「悩んでいる人に気づき、声をかけ、必要な支援につなげるなどの活動をする人」で、「ベーシック」には、専門家だけでなく国民全体で見守っていこう、という思いが込められていたのだそうですね。

Googleの検索にgatekeeperという言葉を入れても、自殺がらみのことは見つからなかったのでありますが、suicide(自殺)という言葉と一緒に検索したらたくさん出てきました。ただgatekeeperはそれなりの訓練を必要とする仕事であるような印象だった。つまり「あなたもゲートキーパー宣言!」というフレーズも見当はずれなのかもしれないということです。ちなみに「GKB47宣言!」に抗議した団体が提案するコピーとしては次のようなものがある。

◆自殺のない「生き心地のよい社会」をめざして
◆ひとりではない、ともにいる、誰かに話して、受止めよう・・・
◆死にたいほどつらい時、あなたならどうしてほしいですか?
◆あの人がこの世から消えないように、僕たちに何ができるだろう

どれもちょっとくどいけれど「GKB47宣言!」よりはこちらの方がまともですよね。そもそもこのプロジェクトは「!」(感嘆符)を使うようなものなのですかね。私がみたPsychology Todayというサイトに出ていたgatekeeperのトレーニングに関するキャッチコピーは

Promoting Hope, Preventing Suicide

というものだった。日本語に直すと「希望が自殺を防ぐ」かな?。

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6)むささびの鳴き声
▼どうでも英和辞書で取り上げたgatekeeperの一件にこだわってみたいのですが、この言葉が自殺防止活動に関係があるなんて誰も知らないですよね。つまり「あなたもゲートキーパー宣言!」だって実は分からない。この問題の担当は岡田克也副総理なのですが、内閣府の担当者から「あなたもGKB47宣言!」というコピーを見せられておりゴー・サインを出してしまった。「私のような常識的な人間が専門家の考えたものを変えるのはよくないので、『これで結構です』と言った」のだそうです。分かるなぁ、それ。この際だからその「専門家」という人に登場してもらって「GKB47」の意義を説明してもらいたいですね。詰問するつもりは本当にありません。

▼石原慎太郎都知事が原発の是非を問う住民投票条例について「作れるわけない。作るつもりもない」と述べた記者会見で「挫折があったり失敗があったり事故もあったけど、それを体験しながら克服することで文明が進歩して今日まで来た」と言っていました。「福島」のようなことが起こったからといって、原発はダメというのではなく、そのようなことが二度と起こらないような技術開発を進めることこそが文明の進歩というものだ・・・と言っているのです。つまり文明の進歩のためには犠牲は仕方ないってことですよね。

▼で、今回はたまたま福島だった。福井で津波があって同じことが起こっても、原発を止めるべきではない。原発反対は文明の進歩に逆行する「センチメンタリズム」だから。でも科学技術や「文明の進歩」に疑問を呈することを感傷的と決めつけられたのでは、人間、アタマは何のためにあるのかと聞きたくなる。石原さんのアタマには科学技術万能主義を疑うという意味での「文明の進歩」はないということです。

▼その石原さんが東京にオリンピックを招致しようと言っているのですよね。そんなおカネ、東京や日本にあるんですか!?などというと、おそらく一笑に付される。オリンピックを招致し、実行する過程においてビジネスが生まれ、経済が潤うという理屈からすると、確かに笑われても仕方ない。が、その種の成長理論こそが2011年3月11日で吹き飛んだのではないかと思うわけです。身の丈に合った成長などというと、石原都知事の考え方に共鳴する人々からはセンチメンタリズムと言われるかもしれないけれど、センチメンタルで結構、文句あっか!と開き直るしかない。2004年のオリンピックはギリシャのアテネで開かれましたよね。あのころのギリシャには本当にそれだけのおカネがあったのでしょうか?

▼沖縄防衛局長が宜野湾市長選に関連して職員を対象に「講話」をしたとかいう話。「講話」って何?と思って辞書を見たら「(大勢の聴衆に)わかりやすく説き聞かすこと」と書いてありました。そんなことを職場でするんですか?この局長さんは、選挙が業務にとって重要な選挙であること、なるべく多くの市民の考えが反映されればいいと考えたこと、公務員としてきちんと選挙に臨めるようにしたいとの思いがあった等々と語っていますが、職員の皆さんはいい大人なのですよね。何でいまさらそんな話を職場の上司から聞かなければならないのか?誰か教えてください。

▼2月4日、TBSテレビの『報道特集』を見ていたら「与野党のジレンマと第三極への蠢動」というレポートをやっていた。「消費税国会」をめぐって民主党も自民党も行き詰まり状態で停滞感が漂っている一方で石原慎太郎、亀井静香、平沼赳夫という3人の政治家を中心に新しい政党を作る動きがあるとのことだった。その中で平沼さんの言葉を聞いて悲しくなりましたね。この3人が会合を持ったときに亀井さんが、自分もかなりの高齢であり、これから長い間政治をやることはできない、だから政治家としての足跡を残すようなことをしておきたい・・・という趣旨のことを言ったらしい。平沼さんは亀井さんの意思を立派であると思って紹介したつもりなのですが、亀井さん個人の政治家人生は亀井さんだけの問題です。それを理由に「第三極」など考えるのはどうかしている。前から考え、そう言っているのでありますが、「AはダメだがBもダメ、この際オレたちが立ち上がろう」というのは全くあてにならない。「AはダメだがBもダメ、この際ダメさ加減が少ない方に投票しよう」というのが私の姿勢です。「第三極」で群れるなどは子供の遊びだと思います。

▼長々と失礼しました。

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