musasabi journal 204
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美耶子の言い分 どうでも英和辞書 green alliance
2010年12月19日
またまた雪の写真です。これはつい最近の南イングランドのある町の雪景色です。知り合いが送ってくれました。比較的海岸に近く、温暖なところと思っていたのですが、このとおりで、庭で栽培していた「マズナ」もアウトだそうです。「マズナ」はMizuna(水菜:みずな)のことで、英国人が発音するとマズナになってしまうのです。
目次

1)ビートルズの人気2010
2)ノーベル平和賞のメッセージ
3)国際比較でダウンした英国の子供たちの学力
4)けっこう複雑、英国人の仕事観
5)高齢者がハッピーになるU字曲線
6)どうでも英和辞書
7)むささびの鳴き声

1)ビートルズの人気2010


いまから30年前の1980年12月8日はあのジョン・レノンが殺された日であったのですね。12月8日というと太平洋戦争が始まった日としか考えていなかったのですが・・・。で、英国のYouGovという世論調査会社がジョン・レノン死後30年を記念して行ったビートルズ人気投票によると、4人の人気順位はPaul McCartney が22%でトップ、次いでJohn Lennon [19%]、George Harrison [11%]、Ringo Star [5%]の順であったそうです。

ただMcCartneyが好きという人を年齢別にみると、一番多いのが60才以上の28%、次いで40~59才が25%だから半数以上が40から上ということになり、18~24才の層ではたったの9%という具合で、年寄りの間で人気があるということになる。それに対してJohn Lennonの人気は40~59才が21%である以外は、どの年齢層にも17%と平均的な人気があるようであります。

尤も「好きなメンバーはいない」(I don't have a favourite member of the Beatles)というのが41%もいるということは、ビートルズはグループとして人気があったということのようでもあり、さすがのビートルズも昔のスターであるということのようでもある。象徴的だと思うのは、イチバン若年層である18~24才の間でこのように答えた人が半数を超えているということですね。好きとか嫌いとかいう前に「知らないもん」ということ。Paul McCartneyはいまやSirの称号がつく人なのだから、老人には受けても若い人たちの間ではお呼びでないのかもしれない。

▼30年ほど前にリバプールを訪れたことがあったのですが、その当時でもすでにビートルズは過去の人たちという感じだったですね。それにしても、なぜビートルズは世界中であれほどの人気を博したのでしょうか?彼らの歌を聴くと、エルビス・プレスリーと似ているなと思うのですが、さすがのエルビスも国境を越えた人気という点ではビートルズにはかなわなかったですよね。

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2)ノーベル平和賞のメッセージ


今年のノーベル平和賞に選ばれた中国人の活動家、劉暁波(リウ・シアオ・ポー:Liu Xiaobo)氏の表彰式(12月10日)をBBC World Serviceの生中継で見ることができました。生中継と言っても、ノーベル賞委員会のThorbjorn Jagland委員長によるスピーチと檀上の空席に表彰状のようなものを置くシーンだけであったのですが、委員長のスピーチを聴きながら、私などは「なるほどずいぶん政治的な賞なのだ」という印象を持ちました。私のいう「政治的」は、ある国の価値観(大切に思っていること)で別の国の価値観を判断しようとするという意味です。

今回の授賞について、中国の新華社通信の英文サイトは「古ぼけた手を使って西側の価値観を他の世界に押しつけようとしている」(pulled the old trick of trying to impose Western values on the rest of the world)のであり「新たなる中国いじめの始まりだ(launching a new round of China-bashing)」と論評しているのですが、私がJagland委員長のスピーチを聴きながら思ったのは「平和を語るということ自体が政治的であらざるを得ない」ということであったわけです。


中国政府や政府系のメディアがきわめて不愉快であると感じた部分(私の推測)をいくつか書き出してみましょう。

▼本人も家族もここに出席できないという事実だけをとってみても、今回の授賞が必要かつ適切なものであることを物語っている。
This fact alone shows that the award was necessary and appropriate.

▼中国が現在誇示している強さにもかかわらず、自国の統治のあり方についての意見を発表したというだけで11年もの禁固刑に処する必要があるということ自体が中国の弱みを示していると言えるのではないかと、多くの人々が感じている。
Many will ask whether China’s weakness -- for all the strength the country is currently showing -- is not manifested in the need to imprison a man for eleven years merely for expressing his opinions on how his country should be governed.

▼劉暁波氏は彼の市民権を行使したにすぎない。何も悪いことをしたわけではない。従って彼は釈放されなければならないのだ。
Liu has exercised his civil rights. He has done nothing wrong. He must therefore be released!

▼中国国内の人権活動家は国際的な秩序と国際社会における主流ともいえるトレンドを守ろうとしている。そのように見るならば、彼らは決して反逆者ではない。こんにちの世界の発展の主なるラインを代表している人々であるといえる。
The human rights activists in China are defenders of the international order and the main trends in the global community. Viewed in that light, they are thus not dissidents, but representatives of the main lines of development in today’s world.

というわけであります。他にもあるけれど、一応これだけにしておくとして、このいずれをとっても、中国のある人々から見れば「欧米の価値観を押しつけようとしている」ということになる。

ところで、今回の授与式はサウジアラビア、ロシア、イランなどがボイコットしたわけですが、そのことについてThe TimesのコラムニストであるCamilla Cavendishの次のコメントは面白いと思いませんか?


サウジ、ロシア、中国の(授賞式への)不参加が示しているのは、世界的な力のバランスが自由民主主義体制からエネルギー源が豊富な独裁国へと移っていく過程にあるということだ。かつては、経済成長が中流階級を生み、それが民主主義につながるという公式があったものであるが、現在ではそうではない。
The absence of Saudi Arabia, Russia and China tomorrow underlines a shift in the global balance of power from liberal democracies to resource-rich dictatorships. It was once axiomatic that economic growth would eventually create a middle class that would successfully demand democracy.

▼Jagland委員長のスピーチテキストはここをクリックすると読むことができます。平和運動と人権活動の相関関係などを語っていて、単なる授与式のスピーチ以上の内容が込められており、一読の価値があります。

▼この問題についての中国の対応について、このスピーチが「中国のやり方はヒットラーのやり方と同じ」と形容したことは中国政府にとっては計算外だったのではないかとThe Economist誌が論評しています。サハロフ博士の受賞にソ連政府が異議を申し立てたのと同じと言ってくれた方が中国には良かった。共産主義・ソ連のやったことと同じことをやっているという自負の念があるから。でもナチスと同じと言われようとは思っていなかったのではないかということです。

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3)国際比較でダウンした英国の子供たちの学力


OECDによる子供たちの学力の国際比較にピサ(PISA)というのがありますね。フィンランドがいつもトップになるという、あれ。Programme for International Student Assessmentの略で、日本のメディアでは国際学力調査となっています。3年に一度行われるのだそうですね。昨年(2009年)がその年で、このほどその結果が発表されて、日本は「改善」したのだそうですが、英国の子供たち(15才)はというと、数学が前回の24位から28位へ、読解力が17位から25位へ、科学は14位から15位へと軒並み前回から落ちてしまったのだそうです。

これらの順位を10年前(2000年)のものと比較すると、数学は8位→24位、読解力は7位→25位、科学は4位→15位という変化なのだから10年でずいぶんと落ちてしまったものだ・・・というわけで、Michael Gove教育大臣は今回の成績について、労働党政権の教育投資がいかに間違っていたかを示すものだと批判しています。The Timesによると、公立小中学校の児童一人あたりの予算はドイツは40,000ポンド、ハンガリーが28,000ポンドであるのに対して英国は54,000ポンドというわけで、労働党政権における教育行政へのGove大臣の批判が全く的外れとは言えないかもしれない。が、BBCのサイトによると、今回の英国の成績についてOECDでは「英国の子供たちの成績が落ちたというよりも、他の国の児童の成績向上に英国の児童が追い付いていっていないということだ」として、「英国の成績は平均的なものだが、問題は英国自身が平均点で良しとするかどうかだ」(The UK's performance is about average. The question is whether the UK thinks that 'average' is good enough.)とコメントしています。

一方、そのPISAのテストで毎年のように優秀な成績を収めるのがフィンランドです。今回のテストでは、読解力3位、科学2位、数学は6位というぐあいに少しだけ下がったのだそうですが、それでも他の欧州諸国に比べればかなりの好成績です。

12月5日付のThe Observerがフィンランドの教育を英国のそれとは対照的なものとして紹介する記事を掲載しています。私学教育、全国テスト、学校給食の3点が特に対照的に紹介されています。


▼私学教育(Private schools)
フィンランドでは圧倒的多数の子供たちが公立の総合学校(comprehensive schools)に通っており、宗教関係の私立学校は存在するにしても財政的には国家からお金が出ている。英国の場合、7.2%の児童が有料私立学校に通っ
ている。授業料は平均10,100ポンド(年間)となっている。

▼全国テスト(Exams)
フィンランドでは高等学校(upper school)を終える18才で次なる進路を決める「資格試験」という意味での全国共通テストがある。全国共通テストと呼ばれるものはこれが唯一。英国の場合、6才と11才で英語・数学・科学の全国テストがあり、さらに16才ではGCSE(普通教育終了試験)、そして18才では大学進学に関するテストがそれぞれ行われる。英国では毎年、各学校の全国テストの順位が新聞紙上で公表される。これをleague tableといいます。フィンランドでは全国共通テストの結果は学校関係者以外には公表されることがない。

▼無料の学校給食(Free school meals)
フィンランドが無料の学校給食を開始したのは60年前だそうですが、英国(イングランド)では無料の学校給食は、親が失業手当をもらっている家庭の子供たちのみに提供されている。労働党政権の時代に、いわゆる貧困家庭(子供二人・年収19,500ポンド)の児童も無料の給食を提供する計画があったのですが、現在の連立になってこの政策はぽしゃってしまっている。

上の3点ではカバーされていないけれど、The Observerの記事は、Finland's schools flourish in freedom and flexibility(フィンランドの学校には自由と柔軟性の花が咲いている)という見出しで、イントロの文章が記事全体のメッセージとなっています。すなわち

フィンランドでは教科は国が決めるが、どのように教えるのかは教師に任されている。 State prescribes the curriculum but leaves teachers alone to decide how to teach the subject

というわけです。ちょっと興味深いのはこのエッセイを書いた人がJeevan Vasagarというフィンランド人の記者であるということです。

まず授業ですが、フィンランドでは何を教えるかは国が決めるが、どのように教えるかは教師次第というわけです。例えば教師が子供たちを「森の算数教室」なるものに連れ出して、そこに落ちている木の枝や小石を使って足し算や引き算を教えることもある。

フィンランドにおける教育の成功の理由の一つは、教師というものの社会的な地位が高いということである。1980年代に行われた教育改革により、教員の育成は大学に任されることとなり、教師はすべてマスターズ・ディグリーを取得していなければならないことになった。

フィンランドと英国の教育における最大の違いは、私立学校の有無にあると言えると思うのですが、この点についてフィンランド教育委員会のTimo Lankinen理事長が次のようにコメントしています。

フィンランドには、なぜか基礎教育はすべての国民に与えられるべきであり、あらゆるレベルの国民を考慮に入れるべきであるという社会的な合意のようなものがある。なぜかどの政党もそれを受け入れている。であるとするならば私立学校など必要がないではないか。
Somehow we have had that kind of social agreement that basic education in Finland should be provided for all, and take all levels into account, and somehow parties in Finland have accepted it. If it [remains] so, there isn't any need for private schools.

▼The Economistなどは、今回の不振について「ウェールズの学校の成績が悪かったことが原因」としており、そのウェールズではイングランドのように全国テストの学校別成績を公表していない、というぐあいにあたかも成績公表の有無が原因であるかのように伝えています。つまり成績を公表することで、学校間の競争が起こりそれが教育レベルの上昇に繋がる・・・と言っている。しかし私がウォッチングする限りにおいては、小中学校の学力比較をする場合、英国については私立と公立の格差について語らない限り殆ど意味がないという人が多い。

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4)けっこう複雑、英国人の仕事観

現在、英国の労働年齢人口(16~64才)は約3800万人(総人口の62%)とされているのですが、そのうちの13%(約500万人)が政府から何らかの福祉手当を受け取って生活しているのだそうです。

11月18日付のThe Economistの政治コラム、Bagehotがこの問題に関連して興味深いエッセイを掲載しています。題してBeveridge's children(ベバレッジの子供たち)。ベバレッジというのは第二次大戦後の英国の福祉国家の基となる報告書を作成したことで有名なWilliam Beveridgeのことです。

福祉手当を受け取っている500万人のうち140万人が過去10年間のうち9年間を失業手当で生活しているという数字もあり、経費節約を目指す政府にとって最大の課題は働いていない人をいかにして職に就かせるのかにあるとされています。で、The Economistのコラムが話題にしているのが、英国人の労働観です。結論からいうと"The British don’t much like work -- but they like the work-shy even less"(仕事はあまり好きでない。が、仕事を嫌がる人間はもっと好きでない)という、かなりややこしい心理があるのだそうです。

最近行われたEurobarometerという欧州全体の意識調査によると、英国人はほかのどの国の人よりも「貧困は怠惰に起因する(poverty is caused by laziness)」と考える傾向にあるそうなのですが、一方で移民が原因とする傾向も一番強いという結果が出ています。フランス人はというと、貧困の原因を「利潤追求(pursuit of profit)」に求める傾向が強く、ドイツ人の場合は「政策が悪い(bad policies)」と考えがちなのだそうです。フランス人の場合は、貧困の原因を資本主義社会のあり方に求めるということでしょうね。

さらに英国人の特徴として「貧困は福祉手当を増やすことで解消できる」(poverty can be tackled with increased social benefits)」と考える傾向が他に比べて低いという結果も出ています。英国人はほかのEU諸国に比べると貧困者に対しては、お金を支給するのではなく仕事、職業訓練などを与える政策が望ましいと考えるのだそうです。

社会と個人の関係ということでいうと、アメリカのPew Global Attitudesという調査によると、個人主義の強さという点で英国人はアメリカとヨーロッパの中間に位置するらしい。「人生における成功は自分のコントロール外の要因によって決まる」(success in life is determined by “forces outside our control)と思うか?という問いに対する答えは、フランス人、ドイツ人、イタリア人、スペイン人のほとんどが「そう思う」と答えたのですが、英国人の55%が「そうは思わない」と答えたのだそうです。アメリカ人の場合は68%が「成功は自分のコントロール外の原因による」という考え方に反対しており、個人の力を信じる傾向がいちばん強い。

次に英国人の仕事観(work ethic)。International Social Survey Programmeという機関の調査によると、英国人(特に男性)の場合、仕事そのものにコミットしている(自分を捧げている)という感覚が低いのだそうです。具体的にいうと、多くの英国人が、仕事は「単に金を得るための手段」(just a way of earning money)と考えているし、「収入が必要なくても仕事は楽しめる」(would enjoy working even if they did not need the income)という考え方について調査したところ「そうだ」と答えた英国人の割合は最も低かったのだそうです。

というわけで、これらの調査結果を信用するならば、英国人は、「仕事をしない人間には厳しく当たる一方で仕事そのものについては歪んだ感覚、複雑な感情を持つ(hostile to the work-shy, yet jaundiced about work)」傾向にある人々であると言える。この感覚から言うと、キャメロン政府が考えている「働かざる者、食うべからず」的な発想も説明がつく。ただ、もう一方でキャメロン政治の中核にあると言われる、政府に言われなくても自分たちの社会は自分たちで自発的に運営するというBig Societyの考え方にはそぐわない人々であるとも言える。

そのあたりの矛盾についてBagehotのコラムは次のように言っています。

要するに英国人が複雑な人々であるということなのだろう。強固なコミュニティ感覚を有する個人主義者たちであり危機に際してはまとまる人々である、と同時に「きまじめ」ということには拒否反応を示す人々でもある。どちらの英国が勝つのか、それはこの「耐乏の時代」に数多くある、良く分からないことの一つであると言えるのだ。
The answer, perhaps, is that the British are complicated. They are individualists who build strong communities and pull together in a crunch. They have a national allergy to earnestness. Which Britain will win out is one of the many unknowables of this age of austerity.

▼仕事というものは、金をもらうためにするのであって好きこのんでやるものではない・・・英国人はそう考える傾向があると言っているのですね。日本で称賛される「仕事熱心人間」についてはアレルギー体質があるということ。尤もこの種の調査を鵜呑みにして一般化するのは、ハナシとしては面白いけれど、現実にはそぐわないということはある。英国人のすべてが「仕事は9時から5時だけ」と思っているわけではないし、日本人はみんな会社人間というわけでもないのだから。

▼そこで「単なるハナシとして」ですが、日本では電車の到着が3分遅れただけで「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません!」というアナウンスがうるさいほど繰り返される。英国の場合は、電車の運転そのものがキャンセルされたって、平身低頭・平謝りということはないし、乗客も日本のように駅員に食ってかかるということもない・・・というのが私個人の印象です。

▼英国的な表現にleaves on the lineというのがありますね。電車が遅れたときに使われる言い訳の一つで「葉っぱが線路の上に積もっておりましたので・・・」というわけ。私だったら「そんなもん、初めから掃除しとかんかい!」となるのですが、私の知っている英国人の場合は"Oh...I see..."と言って、ベンチに腰掛けて新聞でも読むということになる。どっちの世の中が住みやすいのか?


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5)高齢者がハッピーになるU字曲線


最近のThe Economist誌がクリスマス特集というわけで、幸福感についてかなり長いエッセイを掲載しています。いろいろな国における調査によると、人間の一生における幸福感はU字曲線で説明できるのだそうであります。U-bend of lifeというわけですが、Uの左側を若い年代、右側を老年、底の平な部分を中年という具合に分けると、子供からだんだん年を取るに従って幸福でなくなり、中年過ぎにはしばらく不幸時代が続くけれど、それを過ぎて老年に入ると再び幸福になっていくということです。正確にいうと「幸福を感じるようになる」ということです。

なぜ高齢になればなるほど幸福を感じるのかについていろいろな説を紹介しているのですが、余りにも長くなるので一つだけ、スタンフォード大学のLaura Carstensenという先生の説を紹介させてもらいます。彼女によると、自分の生命に限りがあるということを認識するという人間だけが持っている能力に関係がある。

高齢者は自分が死に近づいているということを知っている。であるから現在に生きることが上手になる。高齢者は、遠い先のゴールよりもいま大切なこと(感覚的なものも含めて)に焦点を当てて生きようとする。
Because the old know they are closer to death they grow better at living for the present. They come to focus on things that matter now -- such as feelings -- and less on long-term goals.


将来ではなく、現在に生きることができるのは、将来がある若者ではなくて、死が近づいている老人の方だというわけですね。

さらに言えるのは、高齢になると「大志が死に、受容が誕生する」(death of ambition, birth of acceptance)という現象が起こります。別の(日本的な)言い方をすると「高望みをせず、無理のない線で生きる」ということです。The Economistの表現を借りると「社長になる希望をあきらめて副支店長で満足することを学ぶ」ということです。アメリカの哲学者であるWilliam Jamesの言葉に


絶対に若くてスマートになってやるという希望を捨てる日の楽しさは素晴らしい。
How pleasant is the day when we give up striving to be young -- or slender.

というのがあるそうです。言えてる・・・。

先進国における高齢化は経済にとっては重荷、あるいは解決されなければならない問題とみなされるのが普通であるが、U字曲線はこの問題をもっと前向きに語ろうとしている。世の中、白髪人間が増えるとともに明るくなる・・・という考え方はThe Economistの読者諸氏にとっては特に勇気づけられるものではないか。
The ageing of the rich world is normally seen as a burden on the economy and a problem to be solved. The U-bend argues for a more positive view of the matter. The greyer the world gets, the brighter it becomes -- a prospect which should be especially encouraging to Economist readers .

というのがこの記事の結論です。ちなみにThe Economistの読者の平均年齢は47才だそうです。

▼年寄りは、人生を諦めている部分があるので、中年族に比較すれば人生のストレスも小さい。ストレスが小さい人間は精神的・肉体的に健康であり・・・というわけですね。その通りには違いないけれど、本当ならストレス生活で幸福感が薄いけれど、肉体的には働き盛りである中年のみなさんがハッピーでなければいけないのですよね。ただ人間というものはそのようにはできていないのかもしれない。

▼昔、ジョン・レノンの歌にImagineというのがあって、その歌詞がImagine all the people living for today...というのがありましたよね。この人は1940年生まれだからこの歌が発表されたとき(1971年)には31才だったわけ。middle age crisisが言われるには少し早いけれど、もうすぐ中年男のジョン・レノンが、living for todayという自分の夢を詞にした歌なのかもしれないですね。

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6)どうでも英和辞書

A~Zの総合索引はこちら

life:人生

lifeにはもちろん「生命」と言う意味もあるし「生活」という意味もありますよね。「人生」という意味のlifeについて

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

と言ったのは喜劇のチャールズ・チャップリンです。「人生というものは、クローズアップで見ると悲劇であるが、ロングショットで見ると喜劇なのだ」ということですね。物事を近視眼的に考えない方がいいってことです。年寄りになると分かるのですよね。


tragedy:悲劇

アイルランドの劇作家、オスカー・ワイルドによると、

All women become like their mothers. That is their tragedy. No man does. That's his.

なのだそうです。「女性にとっての悲劇は、みんな母親に似てしまうことである。男にとっての悲劇は、誰も母親に似ないことである」というのですが、どういう意味ですかね。女は男性的に、男は女性的になる方がバランスがとれてよろしいってことでしょうか。


comedy:喜劇

アメリカのジャーナリスト、Erma Bombeckが悲劇と喜劇の違いについて「笑いと苦痛は紙一重」という意味で次のように言っています。

There is a thin line that separates laughter and pain, comedy and tragedy, humor and hurt.

何のことだろうと思ったのですが、スペルを見るとcomedyとtragedyはedyというアルファベットで終わっている点で似ており、humor とhurtもアルファベットを見るとよく似ているのですね。

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7)むささびの鳴き声

▼ジャーナリストの壱岐一郎さんによると、日本のノーベル賞受賞者の中で東京生まれで東大出という人はいないのだそうで「東京風土は創造力、突出力に向かない」とのことであります(『公評』1月号)。そしていまの日本のメディアの中心を占める東京の大メディアの視覚は極めて「微視的」、つまり重箱の隅をつつくような、やたらと細かいことをとやかく言うことはできるけれど、世の中の地平線を見通すような「巨視的」な思考方法には弱いのだそうです。

▼その東京の大メディアが犯した過ちの例が「尖閣」問題の報道である、と壱岐さんは言っています。尖閣諸島で中国漁船が日本に逮捕されるという事件が起こったときに中国政府が日本の駐中国大使(丹羽さんという人)を夜中に呼び出すということがあった。それを日本の新聞やNHKが「非常識な中国外交」と呼んだのだそうです。が、真相は(壱岐さんによると)

最初は戴国務委員が8時に会いたいと申しこんできたが、丹羽大使に予定があり断ったので深夜になったという。深夜会見は日本側のせいである。この場合、外相よりも格上の戴国務委員がわざわざ会いたいという「急務」を日本大使館側が見逃したのが大きいことに留意すべきだったのだ。

というわけです。

▼壱岐さんの言っていることが真相だとすると、真夜中のミーティングを言いだしたのはむしろ日本側だということになる。私は、壱岐さんのエッセイを読みながらNHKや新聞は、なぜ「大使を真夜中に呼び出すとは無礼だ」というニュアンスの報道(ほとんど誤報に近い)をしたのだろうか?と考えた。正確なところは私などに分かるはずはないけれど、北京にいる日本の記者の人たちだって勝手にでたらめを書くはずがない。きっと北京の日本大使館の誰かに聞いたことに基づいて記事にしたのだろうと想像しています。そもそも北京で仕事をしている日本のメディアの特派員と呼ばれる人々の中国語の能力はどの程度のものなのでしょうか?彼らは普段、どの程度中国政府の人々と生で接触しながら仕事をしているのでしょうか?

▼壱岐さんのエッセイに戻ると、東京出身のノーベル賞受賞者がいないのはともかく、東京の場合、大人のみならず子供たちでさえも「知識を吸収し、発表することは上手だが独創的な意見を出すことは苦手」とも言っています。私もかつては「東京の子供」であったのですが、私の場合、「独創的な意見」は言うまでもなく、知識の吸収・発表もアウトであったのだからどうしようもない。

▼壱岐さんのいわゆる「東京の大メディア」の方々が集まっているところとして、日本記者クラブという組織が東京・千代田区にあります。その日本記者クラブの会報の最近号(12月号)に「混沌たる時代:ジャーナリズムの役割とは」というタイトルのエッセイが掲載されています。筆者は朝日新聞の「主筆」で、このクラブの企画委員長である船橋洋一さんです。ちなみに「主筆」とは(大広辞林によると)「新聞社・雑誌社の記者の首席で、社説・論説など重要な記事を書く人」です。船橋さんのエッセイはここをクリックすると読むことができますが次のような文章で締めくくられています。

日本の政治の混沌を見るにつけ、そして日本の外交の散乱を見せつけられるにつけ、こういう時代におけるジャーナリズムの役割とは何だろうかと考え込んでしまう。

ダメな現状を、ダメだ、ダメだ、と書くことだけが役割ではないはずだ。しかし、どこがダメかを書くことがいまは一番必要なことかもしれない・・・。何とも言いようのない脱力感に囚われるこの年の瀬である。

▼言うまでもなく、これは船橋洋一というジャーナリストが自分と同じ職業に従事する人々(日本記者クラブの会員)に読まれることを意識して書いたものですが、上に引用した文章は私のような外部の人間が読んでも大いに思考を刺激させられるものであります。こと政治に関する限り、日本のメディアはこれまで「ダメな現状を、ダメだ、ダメだ、と書くことだけ」をやってきたと私などは思うし、おそらく船橋さんもそう考えているのだと想像します。

▼しかし、「どこがダメかを書くことがいまは一番必要なこと」という考え方は私にはありませんね。いま必要なのは「どこがダメか」を書いたり考えたりすることではなくて、「何がダメさ加減が少ないか」を語ることなのではないかと思うわけです。メディアにおける報道のやり方に関する限り、民主党政権が誕生したとたんに、自民党という政党はほとんど存在さえしなくなってしまった。メディアが血道をあげるのは相変わらずピューリタンのような「権力批判」であり「ダメな現状を、ダメだ、ダメだ、と書くことだけ」であるわけです。ダメではなくて「ちっとはマシかもしれない」というalternativeを語ることをメディアは全く怠っているとしか思えないわけです。それを語ることは、人間の限界を知ったうえで、それでも何ができるのかを語ったり、考えたりすることであり、そのための場を提供するのが、政治ジャーナリズムの役割なのではありませんか?

▼長々とお付き合いをいただきありがとうございました。来年もよろしく。
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