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むささびの鳴き声 美耶子の言い分 どうでも英和辞書 green alliance
2010年10月24日
関東地方、けさ(10月24日)はかなり寒い日です。最近はなぜか晴天というのが少ないですね。本日も何やら暗い天気のようです。
目次

1)財政難でもODAは増やす理由
2)子供手当てカットの不条理
3)「フェアであること」の定義
4)ブレアとチャールズ皇太子の類似点
5)森嶋さんと半藤さんの「日本」
6)どうでも英和辞書
7)むささびの鳴き声

1)財政難でもODAは増やす理由


英国のオズボーン財務大臣が大規模な歳出削減政策を発表したことは、日本のメディアでもかなり報道されています。4年間で公務員を約50万人減らすなどの内容で、英国内ではこれに反対するデモが起きたりしている。政策の中身などは新聞サイトなどを見ると報道されています。

この政策を議会で発表するオズボーン大臣の演説は議事録を読むとそのまま出ていますが、当然ながらめちゃくちゃ長いテキストです。二つほど、地味ながら面白いと(私が)思った部分を紹介させてもらいます。両方とも国際社会における英国の立場に関係しています。

まず外務省。大臣によると向こう4年間で24%の予算が削減されるのですが、これは「本省ベースの外交官の数を大幅に減らす(sharp reduction in the number of Whitehall-based diplomats)ことによって達成されるのだそうです。そして英国における雇用の増大のために英国企業の輸出促進を助けるとともに海外企業による英国への投資促進にも力をいれるとしています。Whitehall-based diplomatsの数を「シャープに減らす」ということは、例えば東京にある英国大使館における英国人外交官の数が減るということですが、24%削減というのはかなりのものですね。

興味深いと思うのは、国際開発省(Department for International Development)の予算が増えるという点です。4年で115億ポンド(GDPの0.7%)にまで増える。これによってアフリカの貧困国における妊婦がマラリアで死亡する数を5万人、新生児の死亡件数を25万件減らせるのだそうです。外務省も国際開発省も外国とのお付き合いを仕事にしているのですが、なぜ国際開発省の予算は増えるのか?「海外援助予算があるからこそ英国は世界を指導する立場にいることができる:Our aid budget allows Britain to lead in the world」からです。

そして海外でボランティア活動に従事する英国人が胸を張って「現在のように経済的に困難な時期でさえ、英国は国際的な約束を守って、貧困国を援助している」と言えるようになるためなのだそうであります。但しロシアと中国向けの援助は中止するとしています。


▼ODAを削ることで国際社会において影の薄い存在にだけはなってはならないということですね。「財政が苦しいのだから人助けどころではない」とは言わない。それが自国にとって不利になるからです。

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2)子供手当てカットの不条理


今回の歳出削減策の中でも最も話題になったのが子供手当て(child benefit)の削減です。

政府関係のサイトによると、現在の英国の子供手当ては原則として子供が16才になるまで支給されるもので、最年長の子供(または一人っ子)については1週間に20.30ポンド、それ以外の子供については1週間に13.40ポンド支給される。つまり子供二人の場合は、20.30+13.40=33.70ポンドということになる。日常生活におけるポンドの購買力から言って、1ポンドを100円と考えると、そこそこ現実に近い数字だろうと思います。子供二人の場合の手当て額は、1週間あたり大体3400円と考えればいい。月額約14,000円ということになる。

これまでの子供手当は親の収入額とは無関係に支給されてきたのですが、オズボーン財務相が発表した案によると、2013年から年収の高い親には子供手当ての支給がなくなる。具体的にいうと、母親か父親の年収が43,875ポンドを超える場合は支給の対象ではなくなる。オズボーン財務相によると「金持ちに手当は要らない」というわけで「厳しいけれどフェア」(tough but fair)なシステムということになる。

しかし問題も大いにある。私の知り合いの英国人が自分の娘夫婦について私宛てにメールをくれたのですが、この夫婦には10才・7才・5才と子供が3人いる。これまでは1週間に20.30+13.40+13.40=47.10ポンドの手当が支給されていた。この家庭の場合、母親は専業主婦で、定期収入はは旦那さんの年収44,000ポンドだけです。が、政府の削減策によると、43,875ポンド以上の年収を得ている人には子供手当が支給されなくなる。つまりこの家庭は月額およそ200ポンド弱の収入減になるわけです。日本でいうと2万円の手当が支給されなくなると言われるのと同じです。これはきついですよね。

この夫婦が共働きで、夫と妻の年収がそれぞれ4万ポンドだったとすると、二人併せた年収は8万ポンドンになる。でも子供手当は支給される。なぜなら夫婦のどちらも43,875ポンド以上の収入を得ていないから。オズボーン大臣は「厳しいけれどフェア」と言うけれど、専業主婦(stay-at-home mums)にとっては「明らかにアンフェア(glaringly unfair)」という批判が噴出している、とThe Economist誌などは伝えています。

The Economistによると、この「改革」によって年間約10億ポンドの節約が可能になるのだそうですが、現在子供手当を支給されている780万世帯のうち約120万世帯が影響を受けることになると言われています。

▼子供手当て削減案に対する反対論は政府の予想以上に強いというわけで、キャメロン首相としても何らかの妥協をせざるを得ないと考えているのですが、その一つとして考えられているのが結婚カップルに対する減税です。この案は子供手当とは別にキャメロンさんが結婚奨励策として以前から主張していたものなのですが、税金逃れのために結婚する「形だけ結婚」(putative marriage)が増えるということで棚上げにされてきたものであり、これをいまさら復活というのも難しいと言われています。

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3)「フェアであること」の定義

最近の英国政治における「流行語」の一つがfairであることはほぼ間違いない・・・と思いたくなるほどこの言葉がよく使われます。英和辞書で見ると「公平」「公正」「正当」などという日本語が出てくる。直近の例として、財政赤字削減策を発表したジョージ・オズボーン財務大臣の国会演説(10月20日)がある。彼によるとこの政策の背後にある原理原則の一つがfairnessであるとのことで

Fairness means creating a welfare system that helps the vulnerable, supports people into work and is affordable for the working families who pay for it from their taxes. Fairness also means that, across the entire deficit reduction plan, those with the broadest shoulders will bear the greatest burden; those with the most should pay the most, and that includes our banks.

fairnessとは弱い者を助け、人々が仕事に就けるように支援するような福祉制度を実現することにあります。fairな福祉制度は働く家族たちが税金によってそれを支えることが可能であるような制度でなければなりません。さらに今回の赤字削減計画全体を貫いているfairnessが意味するのは、肩幅のいちばん広い者がいちばん重い荷を背負うという精神であります。すなわち「最も多く持てる者が最も多く払う」ということであり、その中には銀行も含まれるのであります。

と言っています。「肩幅のいちばん広い者がいちばん重い荷を背負う」が、富裕層が貧困層よりも多くを負担するという理念を意味していることは言うまでもありません。

その約一週間前の10月13日(水曜日)、国会におけるキャメロン首相と労働党のエド・ミリバンド党首の論戦の速記録に次のような部分があります。話題は連立政権が行おうとしている財政赤字削減にからんで大幅な削減が噂されている子供手当てです。

By my reckoning, there are hundreds of thousands of families where one parent stays at home, and the question they are asking is this: why should a family on £45,000 where one person stays at home lose their child benefit-£1,000, 2,000, £3,000 a year-but a family on £80,000 where both partners in the couple are working should keep their child benefit? That does not strike people as fair, and it does not strike me as fair: does it strike the Prime Minister as fair?
私の理解によると、英国には両親の一人が家にいるような家庭が数万、数十万と存在するのです。彼らの疑問はこれです。一人が家にいて年収が45,000ポンドの家庭が、1,000~3,000ポンドもの子供手当をもらえなくなるのに、両親が共働きをして80,000ポンドの収入を得ている家庭はそのまま手当てをもらえる・・・これはなぜなのか?国民はこれをフェアとは思っていないし、私もそのようには思えない。首相はこれをフェアと考えるということですか?

とミリバンド党首が質問したのに対してキャメロン首相は

What I believe is fair is asking better-off people to make a contribution to reducing the deficit. Let me try putting it this way to the right hon. Gentleman-think about it like this: there are thousands of people in his constituency earning one sixth of what he earns. Through their taxes, they will be paying for his child benefit. Is that really fair?
私にとって「フェア」とは、赤字削減のために恵まれた人々に貢献してくれるように頼むことであります。あの名誉ある紳士(ミリバンドのこと)に対して私としては次のことを考えてくれと申し上げたい。すなわち彼の選挙区には、彼自身の所得の6分の1しか得ていないような人々がたくさんおります。その人々が税金を払って、彼(ミリバンド)の子供手当てを支えているのですよ。それがフェアと言えるのでしょうか?

と応じています。

▼キャメロンの答弁についてちょっとだけ解説させてもらうと、質問をしたミリバンドのことを「あの名誉ある紳士(the right hon. Gentleman)」という三人称の呼び方をしています。これは彼の答弁が議長に向かって語りかけるというシステムで行われるからです。

▼さらにミリバンド議員の選挙区の住民でミリバンド議員の所得よりも低い人々について語っている部分ですが、新しい子供手当ての制度は高所得者にはこれを廃止し、低所得者層にこれを振り向ける制度になっている、と政府は説明しています。所得を考慮に入れずにこれまでのような一律支給をするということは、ミリバンドの6分の1しか所得のない人が、税金を通じてミリバンドの家庭の子供手当てを払うことになる。それこそアンフェアではないかと言っているわけです。

この国会討論が行われる一週間ほど前の10月3日~6日の4日間バーミンガムで保守党大会が行われたのですが、ここで行われたキャメロン党首の演説でも「いまこそフェアであるということが何を意味するのかについて新しい議論が始まるべきである」(it is time for Britain to have a new conversation about fairness)と触れられています。いまの英国は(日本と同じように)何とかして国の借金を減らす必要に迫られているのですが、それをやると傷つく人々が出てくる。問題はこれを如何に「フェア」に行うかであるというわけです。

キャメロンのfairness論によると、文明社会(civilised society)においては、病人、社会的な弱者、高齢者らに対しては十分なケアが払われるべきであり、最貧困層に対する経済支援も行うことがfairnessというものである。しかし福祉にたくさんのお金を使えばいいというものではなく、fairnessとは人々を貧困から脱出させることであり、依存の罠にはめ込むことではない・・・というわけで、本当に働くことができない人々には援助を与えるが、働けるのに働こうとしないような人々に対しては、他人の重労働によって生きることを許すことはしない(if you can work, and refuse to work, we will not let you live off the hard work of others)のがfairnessということになる。

つまり社会的弱者は保護するけれど、怠け者を支援することはない・・・と言っている。前段は労働党的、後段はサッチャリズムという気がしないでもない。10月10日付のThe Guardianで、Julian Gloverというコラムニストが「世の中にfairnessほど曖昧であるにもかかわらず政治の世界でよく使われる言葉ない」として次のように語っている。

政治家はfairnessが好きである。なぜならそれは数値化することができないものであり、これと言った行動を要求するものでもないからだ。雰囲気としての理想主義、眼に見えないガス、空気のようなものだからである。Politicians like fairness because it cannot be measured. It compels no action; it is an atmospheric ideal, an invisible gas, a miasma.

fairnessと似たような言葉にequality(平等)というのがあります。似ているけれど違う。equalityは数値化できる。英国における富裕層のトップ10と貧困層のボトム10の間の所得格差が100倍もあり、英国はきわめて不平等な社会であるという人もいる。所得格差が余りにも激しいことは社会の安定にとって望ましいことではないけれど、政府の社会政策の目標を「平等」に重点を置くことは間違っている、とGloverは主張しています。中にはあえて不平等であることを望む権利(right to strive for inequality)を持っていたいという人もいるのであり、それを認めることが「フェアな社会」というものだというわけです。

そのGloverが指摘する英国社会の不公平(unfairness)は「親の代から受け継いだ権利や便宜」(inherited privilege)で、特に教育の分野それが見られると言います。Gloverによると、特に私立学校と公立学校による教育の間の格差が子供たちの将来までも規定してしまう傾向にあると言っています。


これまでの労働党の政策が「平等」に力を入れすぎて、みんながそこそこ豊かになったおかげで、英国社会が抱えている出身家族を基盤にした階級社会という「不公平」な部分が隠ぺいされてしまった、というのがGloverの主張です。現在の連立政府も労働党の影の内閣も、かなりの数の私立学校の出身者で占められています。英国の私立教育こそは、メスを入れる必要のあるunfairnessの象徴なのだそうであります。

▼英国人の好きな言葉にlife isn't fair(人生、フェアではない)というのがあります。大体において保守的な考え方の人によって使われるのですが、人生というものは運と能力と努力がいろいろに混合されたものであり、努力は大切、能力はあるにこしたことはない、運などに頼るのは最小限に・・・などと言うけれど、だとしてもこの世から不平等というものは絶対になくなることはない。だから失敗してもアンタ個人が悪いんじゃない、世の中、しょせん不公平にできているのだというわけですね。

▼その一方で、日常生活においてはThat's unfair...という言葉が殺し文句になるくらいに浸透しているようにも見える。確かに数値化できない言葉なのですが、あたかもそれが絶対的な尺度であるかのように言葉として使われる。That's unfair...と言えば、いちおう耳を傾ける必要があると思われるような・・・。


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4)ブレアとチャールズ皇太子の類似点


今年の夏に出版された英国の前々首相、トニー・ブレアの回想録 "A Journey" が売れているそうです。発売後4日間で92,060部が売れたとかで、これは政治家による回想録としてはかつてない記録である、とGuardianなどが伝えています。私(むささび)自身はまだ読んでいないのですが、この本が発売される直前には新聞という新聞が書き立て、テレビは筆者とのインタビューを放送するなどして英国中の話題をさらっていたことは確かです。

この本については賛否両論なのですが、どの意見も政治的すぎて面白さに欠けると思っていたら、最近のLondon Review of Booksというサイトにケンブリッジ大学のDavid Runcimanという学者が書評を投稿しているのに出会いました。Preacher on a Tank(戦車に乗った説教師)というタイトルなのですが、書評というよりも、この本を話題の核にしながらブレアという政治家について評論しているという中身で一読に値します。ひょっとするとブレアの本よりもこちらの方が面白いかもしれない!?

相当に長いものなので細かく紹介はしません。一か所だけ9・11テロ後のブレアについて触れた個所のみ紹介してみます。この個所は次のような文章で始まっています。

9・11テロ後におけるブレアの過ちは、彼の力では把握できないものを無理矢理把握しようとしたことにある。まずアフガニスタン、次いでイラクにおいてブレアは起こり得る事態についての自分のコントロール能力を信じ難いほどに過大評価したのである。
Blair’s mistake after 9/11 was to try to grip things that were not grippable, certainly not by him. First in Afghanistan, then Iraq, he vastly overestimated his ability to control what would happen.

David Runcimanによると、そもそもアフガニスタンもイラクもアメリカの戦争であり、ブレアの戦争ではなかったのに、ブレアは自分が戦争の結果として起こる事態を制御できると思いこんでしまった、というわけです。ブレアは9・11(2001年)以前にバルカン半島のコソボをめぐる紛争で、ミロセビッチ政権打倒のためにヨーロッパの先頭に立ってアメリカを巻き込んだ「実績」がある。渋るクリントン大統領を説得したのがブレアだったというわけで、イスラム・テロリストに対してもアメリカをリードできると考えてしまった。

回想録の中でブレアは、ブッシュ大統領との親密な間柄を語り、ブッシュが如何にまじめにブレアの言うことに耳を傾けたかということを書いている。アフガニスタン爆撃を開始するにあたって「ブッシュ大統領に対して出来る限りの知恵を授けたつもりである」として次のように書いている。

私はブッシュ大統領に対して定期的にメモを送ってさまざまな問題提起を行ったのである。アフガニスタンに対する人道援助、反タリバン勢力の北部同盟との政治的な同盟、経済開発、軍事活動終了後における和解等々の諸問題についてブッシュ大統領のやり方と自分のやり方で進める方向で問題提起をしたのである。
I was writing regular notes to him, raising issues, prompting his system and mine: humanitarian aid; political alliances, including in particular how we co-opted the Northern Alliance (the anti-Taliban coalition) without giving the leadership of the country over to them; economic development; reconciliation in the aftermath of a hopefully successful military operation.

つまり如何に自分がアメリカのアフガニスタン政策に大きな影響を与えたかを誇示しようとしているのですが、Runcimanによると、ブレアのこの記述は「政治の世界の現実というものを把握する能力を失った人物による記述のように見える」(it sounds more like someone who has lost his grip on political reality)のだそうです。ここでいう「政治的現実」は、単にアフガニスタン内部の現実ということだけでなく、ブッシュ大統領を取り巻いていたアメリカ国内の政治的な現実も含めての話です。David Runcimanによると、回想録の中でブレアは、ブッシュ大統領が実際にブレアの助言のどの部分を取り入れてこれに従ったのかについて全く語っていない。

Runcimanはブッシュとブレアの間柄を、ブレアとチャールズ皇太子の間柄と似ているとしています。ブレアが首相であったころに、チャールズ皇太子は手紙をブレアや彼の閣僚宛てにたびたび送ったのだそうです。社会問題、自然保護などについての自分の考え方を述べる手紙で、どれも手書きであったそうですが、これらの手紙は(ブレアによると)いずれも「政治的現実」を知らない人間が書いたと思われる内容であった。しかし皇太子という立場の人からの手紙であっただけに扱いに苦慮したらしい。皇太子のマジメさ(sincerity)を尊敬する一方で、政治的な知恵のなさ(political nous)については困ったもんだとも考えていた。つまり「半分尊重・半分お荷物扱い」(half respectfully, half mockingly)ということで、ブッシュ大統領もブレアからの度重なる「助言」をありがた迷惑と思っていた部分もあるのではないかとRuncimanは見ています。

▼チャールズ皇太子が政府関係者(大臣クラス)に送った手紙はblack spider memosと呼ばれていたそうです。「黒くもメモ」ですな。虫のクモです。皇太子の手書きがblack spiderの形と似ていたということでしょうが、別の言い方としてsprawling handwriting style(のたくるような手書き)というのもあるということは、日本語でいうと「ミミズがのたくったような」という文字なのかも?チャールズ皇太子は遺伝子組換え食品に対する批判とか、ある種のモダン建築物にも辛いことを言うことで知られています。

▼アフガニスタンやイラクを攻撃するにあたって、英国内ではまるでブレアがブッシュを焚きつけたようなことを言う人もいたけれど、アメリカ人が書いた本を読むと分かるように、ワシントンではブレアが何を言おうが殆ど問題にされていなかったと思います。その意味で、They were going to happen with him or without him(ブレアがいてもいなくても、アフガニスタンとイラクへの攻撃は行われることになってていた)というDavid Runcimanの指摘は当たっている。

Runcimanによると、ブレアとチャールズ皇太子は、いずれも自分が「物事を深く考える人間」(deep thinkers)であると思いたがるという点で似ているのだそうです。

その昔、英国にネビル・チェンバレンという首相がいました。第二次世界大戦直前まで首相を務めていたのですが、ヒットラーに対する態度が宥和的(appeasing)であるというので大いに不評を買い、チャーチルにとって代わられた人物です。ブレアの回想録には、そのチェンバレンについて語っている部分がある。オーストリアやチェコスロバキアを衛星国としたヒットラーの侵略的なやり方に直面したチェンバレンが考えたのは「ヒットラーを包囲できるか?」(Can Hitler be contained?)ということだった。 ブレアに言わせると、包囲できるかどうかなどは問題ではない。根本的な問題(fundamental question)は、ファシズムなるものが即刻根絶やしにしなければならないほど強いものなのか?ということであるというわけです。つまりヒットラーは絶対悪であり、ファシズムとは対決しかないというのがブレアの考え方であり、「包囲できるかどうか」を問題にするチェンバレンは「物事を深く考えていない」(he didn’t drill deep enough)ということになる。


▼ヒットラーをサダム・フセインやオサマ・ビン・ラディンに置き換えてみるとブレアのアフガニスタン観、イラク観が分かりますよね。彼のアタマの中には「善か悪か」という考え方しかない。それ以外の考え方はすべて「物事を深く考えていない」ということになる。このような発想は分かりやすいので正しいように響くけれど、政治(それも国際政治)の世界はそれほど単純な発想では片付かないのではないか?私がブレアに感じる「気持ち悪さ」は、なんでもかんでも白黒に割り切ろうとするネオコンの姿勢と同じようなものを感じるからなのでしょうね。おそらくブレアにとっては白黒に割り切れないものを無理矢理割り切るのがリーダーシップということなのでしょう。

▼(日本の)外務省の元お役人で、アメリカ通で有名な人がイラク戦争について語るのを聞いたことがあるのですが、その時にこの人がブレアについて「ブッシュの懐に飛び込んで言うべきことを言った首相」として絶賛していたのをいまでも憶えています。この日本人外交官の言うことは本当に正しかったのか?ブレアは彼が言うほど「言うべきこと」をブッシュに言ったのか?そして本当にブッシュはブレアの言うことに耳を傾けたのか?

▼ところでA Journeyという回想録は、発売された途端に本屋さんで半額で売られていました。英国の出版界ではよくあることのようですね。売れないから値引きしたのではなく、発売記念サービスなのでしょう。別の作家の本についても同じことがあって、私が「え?もう半額なの?」と聞いたら「買うなら今日ですよ。明日になったら半額サービスはやらないから」と言われた。これ、日本の書店ではやりませんよね。

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)森嶋さんと半藤さんの「日本」


むささびジャーナルが200回目を迎えてしまったという理由もあって、これまでにどのような記事を掲載してきたのか、back-numbersの記事リストを見てみたところ、自分がいかに物忘れが激しくなっているかを思い知らされる結果になってしまった。「こんな記事書いたっけ!?」ということの連続であったわけです。もちろんかなりはっきり憶えている記事もあります。その中の二つが第56号(2005年4月17日)で紹介した、森嶋通夫さんの『なぜ日本は没落するか』(岩波書店)と第88号(2006年7月9日)に載せた半藤一利さんの『昭和史・戦後篇』(平凡社)という本の紹介でありました。森嶋さんは1923年生まれで、半藤さんは1930年生まれで、私(1941年)よりそれぞれ18才、11才上の人たちですが、彼らのメッセージは今でも大いに生きているように思います。

最近、尖閣問題をめぐって中国で反日デモが荒れていると伝えられます。私が森嶋さんの『なぜ日本は没落するか』を読んだときにも中国で反日デモが起こっており、それらをどのように考えればいいのか、自分でもはっきりせずに困っていたと記憶しています。森嶋さんはこの本の中で、自分が提唱した「東北アジア共同体」という構想について書いています。日本・台湾・中国・韓国・北朝鮮などを含めた「共同体」を作ろうという発想です。

森嶋さんによると、このアイデアは中国や韓国では興味を持たれたものの、日本ではほとんど注目されなかった。それどころか、この話を日本のある会合でしたところ、聴衆のひとりから「日本は中国で残虐行為をしたから、一緒に共同体をつくりましょうという気持ちにはなりません」という発言があった。そこで森嶋さんがその聴衆に対して

それなら言いますが、日本はアメリカに対しても残虐行為や不法行為をしています。真珠湾を(たとえ意図的ではなく、結果的にそうなったとしても)無警告攻撃し、フィリピンのコレヒドールでは米軍の捕虜に死の行進をさせました。だけど日本はアメリカと仲良くしています。アメリカとはできてもどうして中国とはできないのですか?

と答えたところ、質問者は怒ったような顔をして何も言わずに着席したのだそうです。森嶋さんによると、日本人は「東北アジア共同体」を作り、運営していく中で国際化していくことを勧めています。「日本人は米、加、豪、ニュージーランドとならすぐにも共同体をつくるだろうが、アジア人だと尻ごみしてしまう」とのことですが、森嶋さんは「今は日本人が打ちひしがれている時だから、アジアで元気づけして飛躍する絶好のチャンス」であり、共同体を作れば「尖閣列島や竹島の領土問題も消え、いらん神経など使わんでよいという副産物もある」と言っています。

半藤一利さんの『昭和史・戦後篇』は読んで字の如く、日本の戦後史なのですが、昭和の最後(1989年)で終わっています。ただ本が出たのはいまから4年前、2006年のことです。最後のページで「これからの日本」のあるべき姿について書いています。その部分だけ私なりにまとめ直してみると次のようになる。いずれも「日本は」とか「日本人は」とかいう言葉をアタマつけて読んでみてください。言葉遣いそのものは半藤さんのものです。

1)無私になれるか?まじめさを取り戻せるか?「私(わたくし)」を捨てて、もう一度国を新しく作るために努力できるか?

2)小さな箱から出る勇気を持てるか?自分たちの組織だけを守るとか、組織の論理や慣習に従うとか、小さなところで威張っているのではなく、そこから出て行く勇気があるか?

3)大局的な展望能力、ものごとを世界的に、地球規模で展望する力があるか?

4)他人様に頼らないで、世界に通用する知識や情報をもてるか?

5)「君は功を成せ、われは大事を成す」(吉田松陰)という悠然たる風格をもつことができるか?

上に挙げた「これからの日本」に関する5項目は、知識人としての半藤さん自身のマニフェストのようなものかもしれない。理念・理想の世界ですが、日本の知識人ほど「自主的」とか「主体性」という言葉が好きな人たちもめずらしいかもしれない。

で、これからの日本は以上に挙げた5項目ような事柄を身につけることを考えるべきであって「軍事力の増強などが大切なのではない」と半藤さんは主張しています。戦後の昭和時代は「軽武装・経済第一主義」でやってきた日本ですが、いまやそのような平和路線は通用しないという軍事優先主義が大きな顔をする時代になっているけれど、これからの日本が考えるべきなのは軍事などではないと言っているわけです。

森嶋さんと半藤さんの本を読んで気がつくのは、森嶋さんの東北アジア共同体というアイデアを支えているのが半藤さんの挙げる「これからの日本5項目」であるように見えるということです。特に2番目の「小さな箱から・・・」がこれにあたると(私などは)考えてしまう。「反日・中国」に限らず、アメリカを語るときでも「ワシントン政府は親日か反日か?」というアングルで語ることがあまりにも多い。日本という世界だけしかアタマにないという感じで息が詰まる。しかも世界の国々を、日本にとって敵なのか味方なのかというアングルでのみ考える。どの国も敵にも味方にもなるという当たり前のことから思考が出発していないとしか思えない。

半藤さんの『昭和史・戦後篇』は『戦前篇』と併せて2巻ものなのですが『戦後篇』の「あとがき」で「戦前の昭和史はまさしく政治、いや軍事が人間をいかに強引に動かしたかの物語であった」と書いたうえで、半藤さんは次のように結んでいます。

戦後の昭和はそれから脱却し、いかに私たちが自主的に動こうとしてきたかの物語である。しかし、これからの日本にまた、むりに人間を動かさねば・・・という時代がくるやもしれない。そんな予感がする。

最後に英国の政治ジャーナリスト、Andrew Marrが書いたA HISTORY OF MODERN BRITAINという本は英国の戦後史を語っているものです。半藤さんの本で語られている日本と同じ時期、英国がどのような体験をしてきたのかを書いており、最後のページは2006年現在の英国について述べています。

大ざっぱに言うと、英国は第二次世界大戦の戦勝国であるにもかかわらず、戦後の生活は苦しかったし、戦争が終わってからの20数年間は大英帝国衰退の時期でもあった。さらにそれ以後は産業構造の変化の時代で、サッチャリズムによって大手術を受けてから現在までの英国人の生が大いに豊かになった時代でもある。その一方で戦後の英国はほとんど常にどこかで紛争・戦争に加担してきた国でもあり、アフガニスタン、イラクへの派兵によってロンドンがテロに見舞われるという経験もある。

で、Andrew Marrによる英国の戦後史は次のようなパラグラフで終わっています。

The threats facing the British are large ones. But in the years since 1945, having escaped nuclear devastation, tyranny and economic collapse, we British have no reason to despair, or emigrate. In global terms, to be born British remains a wonderful stroke of luck.
現在英国はさまざまな大きな脅威に直面している。しかし1945年からこれまでのところ、核による惨劇もなかったし、独裁者に支配もされず経済が没落したわけでもないのだから、我々英国人は絶望する理由は何もないし、国を出て行かなければならない理由もない。地球規模で考えるならば、むしろ英国人に生まれたことが素晴らしい幸運であったということにおいて変わりはないのである。

半藤さんの結論とMarrのそれはずいぶん響きが違いますね。この違いはどこから来るのか?半藤さんが日本について悲観的に過ぎるのか、Andrew Marrが英国について呑気なのか?私は半藤さんの「5項目」の2番目に一番共感を覚えます。

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6)どうでも英和辞書

A~Zの総合索引はこちら

cotton-wool:脱脂綿


cotton-woolは脱脂綿ですが、"cotton-wool culture"(脱脂綿文化)って何のこと?ひょっとすると知らないのは私だけかもしれないのですが、これはどうやら「過保護文化」というような意味らしいですね。学校などで児童が危険と思われることをやって怪我をした場合、学校の監督不行き届きが責められることがありますが、それが怖さに危険なことは一切やらせないという社会習慣のことです。


一つの例としてイングランドのグロスタシャーにあるCooper's Hillという村で過去数百年にわたって毎年行われてきたcheese rolling(チーズ転がし)という行事が今年は中止になった。どんな行事なのかというと、丘の上から大きなチーズを転がす。それを数百人の男女が追いかけて捕まえる。たったそれだけのことなのですが、かなりの急坂を転がるチーズを大の大人が追いかけて駆け降りるのだから、転んで膝をすりむいたり、顔中血だらけになったりで、もうメチャクチャというわけです。なぜ中止になったのかというと、危険なスポーツを止めなかったというので、村当局を訴えるというケースが出てきたからなのだそうです。


このような文化を嘆かわしく思って報告書を作ったLord Youngという上院議員によると、客が口の中をケガするかもしれないという理由で爪楊枝を置かなくなったレストラン、事故が起こって親から訴えられるのがイヤさに遠足を中止した学校・・・などいろいろあるんだそうです。グロスタシャーのチーズ転がしが中止になったことについて、Lord Youngは村当局や警察に中止を強制する権限はないとして


Frankly if I want to do something stupid and break my leg or neck, that’s up to me. I don’t need a council to tell me not to be an idiot. I can be an idiot all by myself.はっきり言って、私が愚かなことをやって足を挫いたり、首の骨を折ったとしても、それは私の問題だろう。村当局に「愚かなことはするな」などと言って欲しくない。自分が好きでやるのだ。私にだって愚かになる権利はある。

と申しております。これ、実に当たっています。上院議員もたまにはいいこともするのですね。「がんばれ、Lord Young」と声援を贈りたい。


GIVE WAY:一時停止

写真の英国の道路標識の和訳として「一時停止」というのが正しいのかどうか分からないし、あえて紹介するまでもないことなのかもしれないけれど、私、これが好きなのであります。小さな道路から大きな幹線道路に出るような場合にこれが立っている。幹線道路を近付いて来る車に「道を譲れ」という意味ですよね。私の知る限りにおいて、日本やアメリカではSTOP(停止)サインが普通だと思う。STOPとGIVE WAYの違いは、前者の場合は車が来ても来なくても「止まれ」ということであるのに対して、GIVE WAYの場合、近づいて来る車がいない場合は停止しなくてもよろしいってことですね。日米のように何でもかんでも止まれではない。「その判断はお前に任せる」という大人扱いがよろしいじゃありませんか。


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7)むささびの鳴き声

▼英国の連立政権が発表した歳出削減策ですが、The Economistによると、あのサッチャーさんでさえもできなかったような思い切った削減策であるにもかかわらず、リストラの対象になっている公務員関係の人たちがロンドンでデモをした以外さしたる混乱が起きていない。なぜなのでしょうか?私の見るところによると5月の選挙後、spending cutsが話題にならない日はないくらい徹底的にメディアを通じて議論されており、富裕層と貧困層ではない「中くらい」の人々の間で、「いくらなんでも贅沢しすぎているかもな」という感覚があったということなのではないか?但しThe Economistは、この削減策を原則的に支持しながらもeasier said than done(言うは易し、行うは難し)であるとして、実施することの難しさを語ってもいます。

▼でも、キャメロンであれ、ミリバンドであれ「フェアってなに?」というような原理原則的なディスカッションに時間を費やしており、メディアも自らの視点を持ってそれに参加しているのは本当にいいことだと私は思います。

▼かつて日本でも小泉改革というのがあった。郵政民営化が中心だったけれど、役人による税金の無駄遣いを止めさせようという発想で、無駄な高速道路建設などがやり玉にあがりましたよね。よく分からないまでも、私自身は小泉改革の発想は正しかったと思っているし、当時はメディアも「役人叩き」という点では大いにこれをもてはやしたはずです。ところがいつの頃からか「地方が苦しい」とか「派遣労働者の悲惨な生活」というもっともらしいアングルとともに、これに逆行するような意見が強くなってしまった。お役人による反改革の戦いにメディアが乗ったということですね。

▼「閉塞感」という言葉が新聞やテレビで盛んに使われるようになってどのくらいになるのでしょうか?的確な言葉を知らないので、大ざっぱに言わせてもらうと、いまの日本で最も「閉塞感」に浸っているのは新聞やテレビやラジオで仕事をする人たちであろうと思います。それ以外の日本人は生活の苦しさや生きることへの不安を味わってはいるけれど「閉塞感」というのとはちょっと違うと思います。

▼なぜメディアの仕事に従事する人たちが閉塞感に浸っている(と私が考える)のかというと、自分たちの毎日の仕事や業界の将来に希望が持てないからです。なぜ希望が持てないのかというと、自分たちの存在理由が自分たちに分かっていないからです。なぜそれが分かっていないのかというと、物事の重要度についての価値感覚が欠如しているからです。つまり自分のアタマで考えたり、書いたり、話をしたりということが全くないからです。半藤さんの「5項目」の中の2番目はメディアの世界で生きてきた彼自身の実感的コメントではないかと(私は)推察しています。

▼蓮舫・行政刷新大臣という人が国会内でファッション雑誌のための写真撮影をしたとか言うので、自民党の何とかいう名前の議員が国会の委員会で詰問しているのを見ていて、何かほかにディスカッションする話題はないのか?と疑問に思ってしまったのですが、その後さらにテレビのニュースを見ていたら、仙谷官房長官が「(蓮舫大臣は)議員活動の範囲を超え、答弁も不適切だった。厳重注意した」と謝罪したと報道されていました。ファッショナブルな議員さんが国会の中でファッショナブルな写真を撮影してそれが雑誌に掲載されたからって、それほど目くじら立てるような事柄とはとても思えない。なんで謝罪などする必要があるのでしょうか?

▼というわけで、今回も長い間お付き合いをいただき有難うございました。
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