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むささびの鳴き声 美耶子の言い分 どうでも英和辞書 green alliance
2010年1月3日
上の写真は、大みそかのロンドンで行われた打ち上げ花火です。正確にいうと、元旦になりたてのロンドンの風景です。イギリスの小さな村で大みそかを迎えた人(日本人)からの報告によると、その小さな村でも花火の音がして「蛍の光」の歌声が聞こえたそうです。「"蛍の光"はお別れの歌ではないのか」と妙に感心しておりました。どうなんですか?
目次

1)クリスマスはペット受難のとき?
2)新聞サイトの有料化を阻む読者の「無節操」
3)選挙目当ての選挙制度改革?
4)東京裁判の「向こう側」にあったもの
5)D・キャメロンの研究⑧:障害児の親として
6)どうでも英和辞書
7)むささびの鳴き声

1)クリスマスはペット受難のとき?


昨年(2009年)のクリスマス前のBBCのサイトに、ロンドンにある動物愛護協会(RSPCA)の支部に持ち込まれるペットの数が非常に増えているという記事が出ていました。一週間でネコが9匹、イヌが6匹、ロバ2頭、ニワトリ、アヒル、ウマがそれぞれ1匹(頭)、中には全長2・4mのニシキヘビを持ち込んだ人もいたのだそうです。

いずれもRSPCAが運営する預り所(shelter)に引き受けて欲しいというものだったのですが、ペットのオーナーたちが動物を持ち込む理由が「クリスマス前の自宅の大掃除」(Pre-Christmas "clear-outs" of homes)というのだから情けない。

友だちや家族が集まるのだから、家をきれいにしておきたい。となると動物が邪魔になるということもある。
With friends and families coming round, they want to get the house neat and tidy, and sometimes the animals just don't fit in with that.

というわけですが、聞くところによると、クリスマスの後も邪魔者扱いされる動物が多いのだそうですね。プレゼントに動物を買ってもらっても飼い切れない人が多いということです。

▼クリスマスパーティーをやろうというのに、応接間にニシキヘビがとぐろを巻いているんじゃ、どうにもならないかもしれない。英国でペットのshelterが盛んなのは、このような動物が多いということが理由なのかも?


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2)新聞サイトの有料化を阻む読者の「無節操」


英国の新聞にはquality papers(高級紙)とpopular papers(大衆紙)というのがあり、読者がはっきり分かれている。普段quality paperを読む人がpopular paperを読むということは非常にマレであるし、popular paperの読者がたまにはquality paperを読むということはほぼない・・・と私などは思っていたのですが、12月3日付のThe Economistによると、インターネットの時代になって事情がかなり変わってきているようです。

おさらいをしておくと、quality paperと呼ばれる新聞にはGuardian, Independent, Times, Telegraphがあって、大衆紙の代表的なものとしてはSun, Mirror, Daily Mail等がある。

Oliver & Ohlbaumというメディア関係のビジネスコンサルタント会社が行った調査によると、紙としての新聞を読む人のほとんどが新聞販売店で購入しており、自宅に配達される「購読」はほとんどない。どの新聞を読むのかについては、大体決まっている。ただ「ニュースをオンラインで見るときはどの新聞社のウェブサイトサイトを見るか?」という問いについては英国人は「恥ずかしいくらい節操がない」(when it comes to online news, Britons are shamelessly promiscuous)のだそうです。つまりどの新聞社のサイトでも構わないということです。

例えば普段はDaily Telegraph読んでいる人の中で、オンラインニュースをこの新聞のサイトで読むという人はたったの8%。BBCのサイトや他の高級紙のサイトを見る人の方が圧倒的に多い。さらに、いわゆる高級紙の読者もオンラインとなるとSun Mirrorのような大衆紙を読むし、大衆紙の読者が高級紙のサイトにアクセスすることも大いにあるのだそうです。

これまで新聞社が考えてきたセオリーは、読者は自分の好きな新聞を買い、それから特報とかエッセイ、ブログなどを読むためにその新聞のネットを読むだろうというものだったけれど、どうやらこれは甘い(optimistic)ようなのであります。

紙の新聞についてはチョイスにこだわるのに、ネットになるとどこでもいいという、読者の「節操のなさ」(promiscuity)は、自社のサイトを有料化しようと考えている新聞社の経営者にとっては全く有難くない傾向であります。「新聞の読者=サイトの読者」という図式が成り立たない、ということは、自分たちのサイトを有料化してもどのくらいの読者が読んでくれるのか、わかったものではないということです。

自社サイトの有料化をもくろんでいる経営者にとって、さらにがっくりくるような調査結果がある。Oliver & OhlbaumGuardianの読者を対象に、同紙をオンラインで読むために一か月2ポンド(約300円)の「購読料」を払う気はあるかというアンケート調査を行ったところ、「払う気がある」という人は26%だった。紙のGuardianを買うと一部1ポンド(約150円)です。つまりGuardianが紙の新聞を発行せずにネットだけの新聞になった場合、一か月2ポンドという安い料金にもかかわらず、払う気のある読者は4分の1程度にすぎないということです。

それでは、全ての新聞社のウェブサイトが一斉に有料化した場合はどうか? その場合は2ポンドの購読料を払う気があると答えたGuardianファンは16%へと下落するという結果になっているのだそうです。どのサイトも有料ならGuardianにしようという人が増えてもよさそうなものなのに、実際には減ってしまう。全紙のサイトが有料化されると、これまでのように、いろいろな社のサイトを少しずつ見ることが極めて高いものになってしまうことへの抵抗感が強いということです。

The Economistは、これらの調査結果はあくまでも仮定のハナシとしての有料化に対する読者の反応であって、本当に全部の新聞がサイトを有料化するpay wallsシステムを採用した場合は、これとは違った反応になるかもしれない、としながらも、読者の節操のなさは新聞経営者にとって「とても勇気づけられるものではない」(this will hardly encourage newspaper owners)と言っています。

▼そもそも新聞社が自社サイトを無料で公開してしまったことが「イブがリンゴを食べてしまったようなもの(Eve’s decision to munch on an apple)」で、今さらこれを有料化するのは至難の技ですよね。私自身の観察にすぎないけれど、英国の新聞業界は日本などに比較すると、はるかに自由競争の世界だから、各社が足並みをそろえるなんてことはそもそも無理なんじゃありませんかね。かと言って、紙の新聞の売れ行きは減る一方なのだから、ネットの世界で利益をあげなければ企業として成り立たない。ということは、一か月2ポンドならネット版のGuardianに払ってもいいと答えた読者にかけるしかないってことですね。

▼それでも英国の新聞の場合、それぞれに特徴があって固定ファンがいるから、ネット時代になってもそれなりに生き残るのだろうと思います。日本の新聞はどうでしょうか?まずどれも同じで特徴がないですね。たまたまAという新聞を3年購読していると慣れてしまって、Bという新聞には違和感を覚えたりということはある。でもそれは「慣れ」であって積極的なファンということではない。同じような新聞がサイバースペース上で読者を競い合っても共倒れするだけなのでは?

▼私、韓国や中国の新聞のサイトを見たことがないけれど、日英の新聞サイトを比較すると、どう見ても英国の方が先を行っているとしか思えない。双方向性とかブログとか、ネットならではの特徴を存分に使っている。日本の新聞の場合、私が個人的に面白いと思っている新聞の場合はサイトが読みやすくレイアウトされているし、中身も記者によるエッセイがたくさん掲載されていて、ネット時代の新聞サイトという雰囲気はあります。でも読者との双方向性のようなものはあまり感じられない。報道の「プロ」である自分たちのスペースに「素人」が入ってきてもらっては困るということなのでしょうか?

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3)選挙目当ての選挙制度改革?


一か月ほど前のGuardianのサイトに英国の選挙制度の改革についての記事が出ていました。英国では来年の6月初めまでに選挙が行われることになっているのですが、Guardianの記事によると、ブラウン首相が選挙で労働党が勝利した場合、現在の完全小選挙区制(First-Past-The-Post)を別の制度に変えるかどうかの国民投票を2011年の10月までに行うことを約束する法案を議会に提案することに決めたのだそうです。

現在の制度については、選挙民の意思が議席に反映されないということで、ずいぶん長い間これを変えようという意見はあった。たとえば前回(2005年)の選挙の場合、労働党が下院の全議席の55%を獲得したわけですが、実際の得票数は全体の35.3%にすぎなかった。

で、現政権が約束しようとしている国民投票ですが、現在の制度を維持するのか、それに代わってAlternative Vote (AV)という制度にするのかがチョイスになるのだそうです。念のためにおさらいをしておくと、現在の制度では有権者はその選挙区で立候補した人の中から一人だけ選んでXの印をつけ、これを一番多く獲得した候補者だけが勝ちということになる。つまりA候補が1万票、B候補が9999票、C候補が9998票獲得した場合、1万票のA候補のみの勝ちということで、残りのほぼ2万票は死に票になる。

Alternative Voteシステムの場合、有権者は一人の候補者のみに印をつけるのではなく、その選挙区の立候補者全員を1、2、3、4という風に順位づけする。イチバン勝たせたい候補者は1、2番目に勝たせたい候補者は2というぐあいです。A候補者が1をもらって過半数を超えた場合は、そのままAの勝ちとなる。つまりいまの制度と同じです。

4人の候補者の誰もが1で過半数をとれなかった場合、まず1の数が最も少ない候補者が落選となる。そして落選候補が獲得した票で2と記入された候補者に票がそれぞれ分配される。その結果、過半数を超える候補者が出たらその人が勝ち。そうでない場合は、3人の中で最も1が少ない者が落伍する・・・ということを繰り返して最後まで残った者が勝ちということになる。このシステムはオーストラリアの下院議員選挙で使われているのだそうです。

Alternative Voteのシステムを支持する人は、このやり方では候補者を何度もふるいにかけるので、極端な政党が勝つ可能性が少ないし、一選挙区からの当選者は、これまで同様一人なのだから連立政権が生まれる可能性が高いとも言えない。さらにすべての候補者が選挙区での過半数の支持を得てロンドンの議会へ行くことになるので、より民意を反映した選挙になる・・・などを利点として挙げています。

ただ比例代表制を推進しようとするグループからは批判もあります。一選挙区から一人というのでは現在の制度と同じで、得票数が政党の議席数に反映しないという点でも変わらないということです。ロンドン大学とDemocratic Auditという組織が、1997年の選挙(ブレア政権が誕生した選挙)をAlternative Voteシステムで再現してみたところ、完全小選挙区制以上に民意が議席数に反映しないという結果になったのだそうです。

それよりもなぜ今ごろブラウンさんがこんなことを言いだしたのかということについてGuardianがいろいろと推測しておりまして、一つには国会議員の「経費スキャンダル」がまだくすぶっている折から、労働党を「改革の党(the party of reform)」として印象付けたいということがある。

もう一つは、キャメロン率いる保守党が現在の制度を支持していることが分かっており、保守党が勝った場合は、「2011年10月までに国民投票」という法律を反故にするための新たな法案を提出しなければならなくなる。そうすることで、キャメロンに「現状維持派(defender of the status quo)」というレッテルを貼れるではないかということなのだそうであります。

政治ジャーナリストのStuart Weirさんは、open Democracyというサイトのブログで、民意が議席数に反映されない現在の選挙制度のもとでは、政府に対する国会の独立性が損なわれているとして、これを正すには比例代表制(proportional representation)の採用しかないと主張しています。

▼確かに複数の候補者をランク付けする、つまり複数の候補者に投票する点でいまの制度とは違うかもしれないけれど、勝者が一人だけで、2位以下の得票が議席数に何も影響を与えないという点では、いまの制度と大して変わらないですね。

▼日本で小選挙区制が導入されたときに、その利点について「2大政党が政策を争う制度」であることが言われ、民主主義のお家元の英国を見習えということも言われたと記憶しています。その英国でいまなぜこの制度に対する信頼が揺らいでいるのか?国会議員の経費云々とかいうこととは無関係に、英国社会が多様化していて、政治の世界でも「労働党対保守党」というだけでは済まなくなってきているということなのだと思います。


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4)東京裁判の「向こう側」にあったもの


2006年に朝日新聞が行った世論調査によると、「東京裁判」が何であるのかを知らない人は約60%、20代に限ると90%が知らないという結果であったそうです。ウィキペディアの説明によると、東京裁判は「第二次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた裁判」となっています。1946年5月3日から約2年半かけておこなわれ、被告28人のうち東條英機ら7人が絞首刑になったものです。

『東京裁判とその後』(中公文庫)は、この裁判における11人の判事の一人であったオランダの国際法学者、BVAレーリンクという人にイタリアの国際法学者、アントニオ・カッセーゼがインタビューをしたものです。東京裁判では、11人の判事の票決の結果、8対3の票決で日本人被告全員が有罪となったのですが、インド人の判事であるラダ・ビノード・パールが、日本人被告の全員無罪を主張したことがよく知られています。パール判事以外で「全員有罪」の判決に異議を唱えたのが、フランス人のアンリー・ベルナール判事とオランダ人判事のBVAレーリンクの3人だった。

3人のうちパール判事の場合は、「アジアを解放するための日本の戦争」にはむしろ共感を覚えていたような人であったので、東京裁判における日本人被告の全員無罪ということが最初からはっきりしていた。フランス人のベルナール判事は、東京裁判が手続き的に問題があるということで異議を唱えた。そしてレーリンク判事は28人のうち5人について無罪を主張した。

彼がどの被告について、なぜ無罪を主張したのかについては、非常に長くなるので、ここではカンベンしてもらうことにしますが、彼が強く批判していることの一つに死刑が判事11人の単純多数決によって決められたという点がある。量刑審理の際に、11人の判事のうちパール、ベルナール以外にソ連の判事が「死刑反対」という理由で投票には加わらなかった。ウェッブ裁判長(オーストラリア)は、天皇が起訴されないのはおかしいという理由で、これらの被告の「死刑には反対したと結論することができるかもしれませんよね」(レーリンクの言葉)とされている。死刑になった広田弘毅(文民)については、レーリンクが無罪を主張していたわけだから、こと広田に関する限り、死刑反対が5人いたことになる。つまり広田の死刑は6対5の「多数決」で決まったことになる。

それは絞首刑を決めるには言語道断の方法だと思います。

とレーリンクは批判しています。

『東京裁判とその後』の原文(The Tokyo Trial and Beyond)は、いまから約17年前の1993年に発行されたのですが、レーリンクとカッセーゼの対話は、それをさらに16年さかのぼった1977年に行われています。この本のサブタイトルは「ある平和家の回想」(Reflections of a Peacemonger)となっているのですが、この本を読んで、私などはむしろサブタイトルの方をメインタイトルにした方がいいのではないかと思ってしまった。

この本のタイトルの後半部分の『その後』は英文タイトルのBeyondに当たる部分ですが、私の解釈によると「超えたところ」ということなのかなと思います。つまりこの本は東京裁判について語っているけれど、それを超えたところ(例えばレーリンク自身の胸の内など)に何があったのかをも語っているように思える。

極端に言うと、レーリンクという人の戦争・平和・正義・人間などについての考え方を述べているものであり、東京裁判はハナシのきっかけにすぎなかったのかもしれない、と思ったりしたわけです。でも、それは東京裁判にも国際法にも知識ゼロである私の読み方であって、話題はあくまでも、あの裁判と国際法のことです。この二つのことに関心や知識のある人たちは私などとは全く異なる読み方をしているのでしょう。

とはいえ『東京裁判とその後』という本が、東京裁判や国際法などに知識や興味があってもなくても、世の中のことを考えてみようという気のある人なら誰にとっても思考の刺激(thought provocative)になるものであることは間違いないし、必ずしも専門書という類のものではないと思います。レーリンクの言葉の中で、素人の私自身が刺激を受けてしまったものをいくつか挙げてみます。

私が最も興味を持ったのは、ニュルンベルグ裁判で訴追されたドイツ人と東京裁判で訴追された日本人の違いについてレーリンクが述べた部分でした。

彼は、ユダヤ人虐殺を行ってニュルンベルグ裁判で被告になったドイツ人たちの心理状態は、シェイクスピアの『マクベス』によって説明できると言います。この劇の中では、高潔な人物であるマクベスが、妻にそそのかされて主君であるスコットランド王ダンカンを殺害するのですが、そのあとで罪悪感にさいなまれる。

こうした場合、良心的に殺害を認めて罰を受けることで重荷から逃れる方法もあるけれど、マクベスのように良心を殺してさらなる犯罪を犯すことで、善悪の判断力を抹殺するという生き方もある。レーリンクによると、ドイツのナチス親衛隊の残虐な行為は、このような「マクベス的犯罪」によって説明できると言います。

彼らは最初に自分が犯した犯罪の記憶に耐えられなくなって、自分を非情にするためにだけ殺人をしたのだという感じがしばしばしました。

反対に日本人の被告には「悪かったという意識は全くありませんでした!」とレーリンクは言います。なぜなら東京裁判の被告人は指導者であり「誰も戦争犯罪を犯したり犯すよう命じたりしてはいませんでした」というわけです。東京裁判では、戦場で残虐行為をした人は訴追されなかった。彼らは横浜で開かれた別の裁判で裁かれた。

日本人は本当のならず者ではありませんでした。<中略>彼らはサディストではなかった、殺人を目的にしていたのではなかった。

レーリンクはさらに東京裁判における日本人被告とニュルンベルグ裁判におけるドイツ人被告の違いとして、いわゆる「上官の命令」という抗弁のことを挙げています。残虐行為をした人間が「あれは上官の命令に従っただけ」という抗弁です。

レーリンクによると、ニュルンベルグでは、ゲーリング元帥が「総統(ヒトラー)は一切非難されるべきでではない」という命令を出していたのですが、ドイツ人の被告は誰もその命令には従わなかった。命令を出したゲーリング本人でさえそれに従わなかった。

ドイツでは、ヒトラーがしたことは欺瞞だったと言って、人々はできる限り自分たちとヒトラーの関係を断とうとしました。誰もヒトラーを弁護したがらなかった。

つまり悪いのはヒトラーであり自分ではない・・・というわけです。ところが東京裁判では「自分は天皇の命令に従っただけ」と言い張る者がいなかったので「上官命令」は問題にならなかった。

日本では、被告人が天皇を巻き込むことを禁じる命令は全く必要ありませんでした。彼らは天皇を巻き込もうとはしなかったのです。そんなことは彼らにとって思いも寄らぬことでした。

レーリンクは米軍による原爆投下や日本の都市空襲についてもたくさん述べていて「自分たち(アメリカ兵)が何十万と焼き尽くしているのは人間ではないという感覚によってこそ可能になったのです」と言っています。

▼ほかにもいろいろと刺激を受けた部分はあるのですが、長くなるので止めておきます。いずれにしてもこの本は、いわゆる「専門書」ではないと私は思います。戦争、平和、人種差別などに伴う人間の強さ・弱さなどを考えてみたいと思う人なら誰でも読めるものだと思うし、イラクやアフガニスタンという今の戦争について考えるためのヒントを提供している。「東京裁判を超えたところにあるもの(Beyond the Tokyo Trial)」を語る書です。

▼ところでこの本のサブタイトルは『ある平和家の回想』(英文はReflections of a Peacemonger)となっています。Peacemongermongerは「ばらまく人」という意味で、どちらかというと好ましからざる人物のことです。うわさをばらまくようなおしゃべり野郎のことをscandal-mongerとかrumour-mongerなどと言う。もっと好ましくない例としてはwar-mongerというのがある。世界中に戦争をばらまく国のことで、ベトナム戦争当時のアメリカについてこの言葉を使って批判する意見が多かった。レーリンクのことをPeacemongerとあえて呼ぶのはwar-mongerとの対比という意味なのであろうと想像しています。この本ではwar-mongerとしてのアメリカについてかなり詳しく語り合っています。

▼個人的なハナシですが、この裁判が始まったとき、私は5才、閉廷のときは7才半。だから「知っているか?」と言われると、実感としては「聞いたことはある」程度のことしか答えられない。私が憶えているのは、自分が「トウジョウサン、コウシュケイ(東條さん、絞首刑)」という言葉を口にしたということだけ。おそらくラジオのニュースを聞きかじって、意味も分からずに繰り返しただけだったのでしょう。

▼レーリンクやカッセーゼの日本論、戦争・平和論などを読みながら、私自身考え込んでしまったのは、自分がこの裁判のみならず太平洋戦争についても、じっくり考えたりディスカッションをしたりする経験がほとんどなかったということです。半藤一利さんという人が「日本人はあまりにも徹底的に壊滅させられたので、戦争に対する拒否反応が強すぎて、戦争そのものを考えることができないでいる」と言っていたと思うけれど、確かにそうですね。

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5)D・キャメロンの研究⑧:障害児の親として

何度か紹介したことですが、デイビッド・キャメロン夫妻には重度の障害を持ったIvanという息子がおりました。重度の脳性麻痺という障害だったのですが、彼は昨年(2009年)2月、6才でこの世を去りました。デイビッド・キャメロンは2009年7月16日付のThe Independent紙に寄稿、自らの経験に基づく障害児の福祉政策について語っています。

寄稿文のタイトルは「障害児の父親として学んだ5つの教訓(The five lessons I learned as father of disabled child)」となっており、自分が政権の座についたときに実践すべきことを語っています。

教訓1:訪問介護員(health visitors)の数を大幅に増やすこと。自分の子供に障害があることが分かったときの両親を戸惑いと絶望感から救うためには、早い時期での手助けと援助であり、health visitorsは障害児の治療をすることはできなくても、両親に対して優れたアドバイスを与えることができる。

教訓2:障害児を持った両親が必要な援助を受けるためにくぐらなければならないお役所仕事を減らして、簡単に政府の援助を受けることができるようにすること。そのために医者・看護婦・療法士のような専門家のチームを常に待機させて、彼らに必要な援助は何かを的確に分かるようにする。

教訓3:障害児に見合った教育を簡単に受けられるようにする。現在の制度の下では、「特殊教育」を受けるためには、地方教育委員会による「評価(assessments)」、両親による「訴え(appeals)」、教育委員会による「裁定(tribunals)」等々のプロセスを通過するために両親は大きな犠牲を強いられている。さらに労働党政権の下での「開放(inclusion)」という謳い文句の下、多くの特殊学校が閉鎖された。inclusionという政策はある部分の子供たちには普通のクラスで勉強することでいいこともあるかもしれないが、そのようなクラスに入れられることで、却って困難な状態に置かれる障害児もいる。特殊学校の閉鎖を止めて両親にチョイスを与えるようにするべきだ。

教訓4:障害児を持った両親には「休み」(break)が必要だ。重度の障害児を持つ両親は、買い物に行ったり、夫婦で外食したりするような余裕が与えられないのが普通だ。このような両親には息抜き(respite)が必要であり、政府がボランティアの人々を支援することで、両親や介護員に自分たちに適した「息抜き」のチョイスを与えることができる。

教訓5:障害者であれ障害者を家族に持つ人々であれ、もともと絶望感に打ちのめされがちなのに、援助制度がトップダウンで官僚的すぎると、余計に絶望的な気持ちになる。両親、介護員、あるいは障害者自身に決定権を与えること。現在の制度のように「教育費」、「健康福祉費」などをお役所が別々の銀行口座に振り込むではなく、障害者を家族に持つ両親を信頼、尊重して本人たちに一括してお金を与え、使い道(教育であれ、健康であれ、福祉サービスであれ)は本人に任せるということ。

キャメロンについては、とびきり恵まれた教育を受けて育ったから、恵まれない人々のことは分からないだろうという疑念がつきまといますが、そのことについては

私は、自分がいい教育を受けたからこそ、教育改革をして子供たちに最善の人生のスタートを切らせるような教育改革をやろうと考えるのであり、素晴らしい両親に恵まれたからこそ、全ての家族の絆を強くしようと思うのだ。
It's because I had the benefit of a good education that I'm so passionate about reforming our schools so that every child gets the best start in life. It's because I have such great parents who have supported me throughout my life that I am committed to strengthening families.

と言っています。そして、

障害に対する態度についても同じだ。息子のIvanは重度の障害をもってこの世に生まれてきたが、彼の面倒を見るという経験をとおして父親としてのみならず政治家としても多くの点で考えかたが変わった。
The same is true with my approach to disability. My son Ivan was born with a profound disability, and my experience of looking after him has changed the way I see a lot of things: not just as a father, but as a politician, too.

と主張しています。またキャメロン一家が全員でIvanを助けようとしたという経験が、「家庭」というものに重点を置くキャメロンの思想につながっているという人もいます。

キャメロンはビクトリア朝時代の価値観の世界(基本に戻ろうという世界)に戻るべきだと言っているのではない。彼は単にすべての子供がIvanと同じように愛情をもって育てられるべきだと考えているにすぎないのだ。
Cameron has no wish to take Britain back to a Victorian values "back to basics" agenda. Cameron simply believes that all children should be given the chance to be brought up with the love that surrounded Ivan.

というのは、Guardianの政治記者、Nicholas Wattの見るところです。

▼上に挙げた5つの「教訓」のうち、3つめのものが労働党との比較のうえで注目されます。ブレア、ブラウンの労働党政権が強調したのがinclusionという考えかたです。日本語に直しにくいけれど、反対語はexclusion(排除)です。ブレアさんたちがよく使ったのがinclusive societyという言葉で、これは障害者や世の中の弱者と呼ばれる人たちをexcludeするのではなく、includeするということ。「包み込む」ということですが、障害者に対しても開放的ということです。

▼inclusionの発想によると、障害児も普通学級で教育されるべきだということになる。が、キャメロンに言わせると、inclusionというお題目(gospel)によって特殊学校のようなものがどんどん閉鎖されてしまったが、場合によってはこれが必要な場合もあるということです。政府が勝手に閉鎖するのではなく、特殊学校も存続させて、普通学級に通わせるのかどうかは両親に任せようと言っている。

▼最後に付け加えたGuardianの政治記者のコメントですが、キャメロンが考えてもいないものとして「ビクトリア朝時代の価値観」(Victorian values)とか「基本に戻ろう」(back to basics)という考えかたは、サッチャーとメージャーという保守党の首相が掲げた思想である点が注目です。

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6)どうでも英和辞書

A~Zの総合索引はこちら
decent:まともな

2009年12月25日付の毎日新聞のサイトの「発信箱」というコラムで、経済部の福本容子記者が、いまの日本は「Dの暗示にかかって勝手に力を発揮できずにいる」と言っています。つまりDで始まる英単語によってがんじがらめになっている。例えばdeflation(デフレ)、depression(不況)、decline(下降)、decrease(減少)、difficulty(困難)等々ときて「ついでに、ダメ(dame)」というわけです。

言われてみると、Dで始まる英単語というとろくなものを思いつかない。damn(呪う), danger(危険), death(死), debt(借金)、deception(欺瞞), doubt(疑い)、dull(退屈)・・・気分がdarkになる。もう少し「まとも」な言葉はないものかと思って考えてみたら、decent(まとも)というのを思いつきましたね。まともな社会(decent society)、まともな人物(decent person)、まともな食事(decent meals)、まともな家(decent house)、まともな仕事(decent job)、まともな友人(decent friends)・・・モノであれ、人であれ、そこそこ優れた質を有するときに使える便利な言葉です。Do you want to have a cup of decent coffee?と言われたので、何がdecentなのかと思ったら、インスタントコーヒーではなくて、ちゃんと豆から挽いたコーヒーのことだった。

いまの日本は福本さんの言うようにdeflationdepressiondecline等々ろくなことがないように見えるし、自殺者が1年に3万人というのではdecent societyということさえも言えないかもしれないけれど、ひとつだけ確実にdecentだと思うのは、トイレですね。駅、コンビニ、公園のような人がたくさん集まる場所のトイレが実にきれいだと(私は)思います。昔はこうじゃなかった。数年前にオックスフォードで使わざるを得なかった公衆トイレはひどかったし、ロンドン近くの電車の駅で「トイレはありません」と言われたときには呆然としてしまった。


shoplift:万引き

知らなかったのですが、liftには「盗む」という意味があるんですね。お店(shop)で盗むからshoplift(万引き)というわけですが、日本語の「万引き」の語源は(ウィキペディアによると)「商品を勝手に間引く」ということなんだそうです。「間引き」が転じて「万引き」というわけです。

クリスマス明けの12月26日、北ウェールズのAbergeleという町の酒屋さんで、ウィスキーを2本万引きしようとして捕まった男がおります。David Archerという名前で54才。この人、何がすごいかというと、これでshopliftingで捕まるのが321回目であったということです。The Observer紙によると、この人は「軽犯罪中毒」(addiction to petty crime)なんだそうで、つまり盗むことに快感を覚えるという、ヘンな癖のあるんですな。お店で酒を盗む程度のことなら「ほんの出来心でござんす。許しておくんなさい」で済むかもしれないけれど、321回ともなると出来心とは言えないし、チャリティー組織の募金箱を盗んだこともあるのだそうで、これはまずい。

shopliftingの癖が何歳ごろから始まったのかは書いてないけれど、10才以下ってことはないでしょうね。14才が最初のshopliftingだったとして、40年で321回逮捕されたってことになる。年平均8回。最近のクリスマス15回のうち娘と家で過ごしたのはたった一回。14回は留置所で過ごしたのだそうです。マジメにやれ、マジメに!

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7)むささびの鳴き声

▼英国のジャック・ストロー法務大臣(Justice Secretary)が、最近BBCラジオ4とのインタビューで「最近の警察官は、外回りをやらずに、暖かい警察署内で事務的な仕事ばかりしている」という趣旨の発言をして、警察関係者の怒りを買っています。このインタビューは新聞各紙にも取り上げられていました。

▼このニュースをThe Timesの記事で読みながら、いまさらながら英国におけるラジオの存在感について思いを新たにしてしまった。特にBBCのラジオ4は影響力が大きくて、イラクにおける大量破壊兵器の有無についての英国国防省の科学者とのインタビューに基づくニュースが放送されたときの騒ぎを思い出します。この科学者はのちに自殺してしまい、BBCの担当記者がクビになったのですよね。

▼私、ここ一か月以上、テレビというものをほとんど全く見ていない。いつもなら見ていなくてもテレビはつけていて、音だけ聴いていたものですが、最近はそれもやらなくなった。非常に意外なことに、実に快適であります。静かなのですよ、生活が。

▼そのかわりラジオは毎晩ベッドの中でかなり熱心に聴いています。先日もあるラジオ番組で、その局のニューヨーク支局長さんという人がトークをやっていたのですが、彼がワシントンにいる日本人の特派員(特に新聞の)の仕事ぶりについて嘆いておりました。彼によると、ワシントンには英語もまともにできない政治部の記者が多いらしい。彼らの取材先は、日本語のできる米国務省の日本担当のお役人もしくはいわゆる「知日派」のオピニオンリーダーであることが多いのだそうです。

▼そのような特派員発の記事に限って、最近の鳩山さんについて「アメリカはカンカンに怒っている」というようなものが多いのだとか。つまり国務省が日本政府に圧力をかけるために行うブリーフィングの類に基づく記事ばかりが日本に伝えられるということです。

▼その支局長さんは「こんなこと、言っちゃっていいのかなぁ」とか言いながら結構言いたいことを言っておりました。昨年大いに話題になった芸能人の麻薬汚染についても「なんですか、あの報道は。恥ずかしいとしか言いようがない」と、自分の局も含めたテレビメディアの大騒ぎぶりを嘆いていた。これは当たっている!

▼私のようにベッドの中でラジオのニュースを聴く場合、時間帯にもよるけれど、文字通り「耳を傾ける」気分で聴いていることが多いのです。つまりテレビニュースよりもはるかにマジメに聴いている。だから影響力は大きいと思うのですが、いまいち面白い番組が多くないのが残念ではある。がんばれ、ラジオ!と言いたい。
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