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むささびの鳴き声 美耶子の言い分 どうでも英和辞書 green alliance
2009年1月4日
2009年最初のむささびジャーナルです。いつまで続くか分かりませんが、今年もよろしくお願いします。
目次

1)ブラウンさんと総選挙

麻生さんが、いつ総選挙をやるのか、日本中がイライラしているようでありますが、1月3日付けのThe Economistによると、英国のブラウン首相が今年中に選挙に打って出るのではないかとされています。両方とも選挙の洗礼を受けずに首相の座についたわけですが、麻生さんの場合は、遅くとも今年の9月までに選挙をやる必要があり、ブラウンさんの場合は、来年(2010年)の6月までに行うことが義務付けられています。英国における最近の総選挙は2005年5月に行われたもので、そのときはトニー・ブレア率いる労働党が勝ったのですが、英国の選挙法では5年に一度は選挙をすることが義務付けられています。

労働党の人気はブレア時代から落ち目になってはいたのですが、ゴードン・ブラウンが首相になってから特にひどく、2008年の半ばには支持率が25%程度にまで落ち込み、保守党に対して20ポイントも差をつけられていた。それが2008年後半の金融危機の到来に伴って、35%まで人気を回復、保守党の人気がいまいちということで、5ポイント差まで追い詰めている。党内の有力者からも早めの選挙を、という声が上がってきている、とThe Economistは言っています。

で、もし今年選挙をやるとなると、有力なのが6月4日なのだそうです。その日には英国内の地方選挙と欧州議会議員の選挙が行われる。それから5月には、金融危機がらみのG20首脳会議が英国で開かれる。ホスト役をつとめるブラウンがアメリカのオバマ大統領と親密なところを見せ付ければ、選挙民にも受けるのではないか、というわけです。

もちろんブラウン首相が選挙を来年(2010年)まで延ばすということもありうる。実は1992年に行われた総選挙では、労働党の勝利が予想されていたのに、まさかまさかでジョン・メージャーの保守党が勝ってしまった。あの選挙の前の英国は不況のど真ん中にあり、ようやく不況を脱した時点でメージャーさんが選挙をやって勝ってしまった。ブラウンさんは、あの選挙結果に学んだのかもしれない、とThe Economistは言ったうえで、

もし2010年の半ばまでに景気回復が始まったとすると、ブラウン氏は(今年の新年メッセージでもそうしたように)、あたかも自国を勝利に導いた戦時指導者のように振舞うことができるかもしれないのだ。Mr Brown may be able to pose --as he did in his new year's message this week--as something approaching a victorious wartime leader.

▼なるほど、5月に英国でG20がある。そこで国際的な指導者として華々しくオバマと握手をする、それがテレビで流されて・・・というわけですか。The Economistはブラウンさんが慎重居士であることを伝えるときにhis notorious cautionという言い方をしています。「全く評判の悪い慎重さ」ということです。ブラウンさんの慎重さを、誰がnotorious(どうしようもない)と考えるのか?これはおそらく労働党内部の人たちなのではないかと、私は推測しています。彼の前任者のブレアが、派手な政治手腕で知られていたのとは大違いというわけです。

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2)女王陛下のクリスマス・メッセージ

英国のエリザベス女王は、毎年クリスマスになると、テレビを通じて国民あてのメッセージを発表するのですが、2008年の12月25日に放映された女王のメッセージは、いわゆる金融危機と英国における住宅バブルの崩壊などによって、多くの国民にとって、このクリスマスは「憂鬱な行事」(sombre occasion)となったことを強調しています。またこのような苦境を乗り切るために必要なのは「寛容さと利己心のない人々」(the generous and selfless)であるとして、息子のチャールズ皇太子を始めとする王室の家族が行っているさまざまなチャリティ活動を称賛しています。

いくつかポイントと思われる部分を抜き出してみると・・・

クリスマスは普通は祝賀のときであるはずです。しかし今年のクリスマスは多くの人々にとって、むしろ憂鬱なものになってしまいました。昔なら当たり前と思われていたことが、急にそれほど確かなことではなくなって、当然のように不安な気持ちが強くなっています。Christmas is a time for celebration, but this year it is a more sombre occasion for many. Some of those things which could once have been taken for granted suddenly seem less certain and, naturally, give rise to feelings of insecurity.

▼メッセージの出だしです。いきなり現在の危機に踏み込んで語っています。やはり英国の人々も、現状には不安感(feelings of insecurity) を強く持っているということですね。

生きていくことが苦しいと思われるとき、勇気のある人は身をかがめて敗北を認めるということはしません。彼らはむしろ、より良い未来のための戦いに向けてなおいっそう決意を固めるでありましょう。When life seems hard the courageous do not lie down and accept defeat; instead they are all the more determined to struggle for a better future.

▼彼女の息子であるチャールズ皇太子の慈善活動に触れている部分なのですが、女王がメッセージを贈っている部屋は、バッキンガム宮殿の「音楽の間(Music Room)」であり、ここはちょうど60年前にチャールズ皇太子が洗礼を受けた場所であるそうです。

彼は、真の人間の幸せと満足感は受け取ることよりも与えること、奉仕されるよりも奉仕することの中にあるということを明らかにされたのです。He makes it clear that genuine human happiness and satisfaction lie more in giving than receiving; more in serving than in being served.

▼ここでいう「彼」とはイエス・キリストのことです。

エリザベス女王は2008年のクリスマスで82才。彼女がテレビを通じて国民にクリスマス・メッセージを贈るようになったのは1952年のことで、今年は56度目ということになる。国会での女王の演説と違って、クリスマス・メッセージは政府とは無関係、全くの自作・自演なのだそうです。2008年のメッセージのフル・テキストはここをクリックすると読めます。

ところで、2009年1月2日に東京の皇居で行われた「一般参賀」に際して、ベランダに姿を見せた天皇陛下による「あいさつ」には次のような部分があります。

「新しい年をともに祝うことを誠に喜ばしく思います。厳しい経済情勢の中にあって、苦労多く、新年を迎えている人々が多いのではないかと案じていますが、この年が国民にとり少しでも良い年になるよう願っています。ここに年頭に当たり人々の幸せと世界の平安を祈ります」

▼これ以外にどのようなことが言われたのかは分かりません。天皇陛下のスピーチは天皇陛下の自作によるものなのでありましょうか?女王も天皇も、スピーチの主なテーマが不況というのはちょっと珍しい?

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3)英語で英語を教えるってホントですか!?

12月23日付けの朝日新聞に「高校英語、英語で授業」という見出しの記事が出ていました。読んだ方います?2013年度から全面的に実施される高校の学習指導要領案というものが発表され、その中に「英語の授業は英語で指導することを基本とする」と書いてあるのだそうです。

この日は、社説でもこの問題が取り上げられていました。見出しは『英語で授業・・・really?』というもので、「高校の英語の先生たちの中には、頭を抱える人も少なくないだろう」という出だしになっている。really?(ほんまかいな)というわけで、余りにも突拍子も無いお達しで、高校の先生はもとより、この社説を書いた人自身が面食らっているようなのがおかしいのですが、社説のポイントと思われる部分をそのまま書き出してみると次のようになる。

日本人の英語下手はよく知られるところだ。ノーベル賞を受賞した益川敏英さんのスピーチは、その象徴といえるかもしれない。中学、高校と6年間学んでも、読み書きはともかく、とんと話せるようにならない。<中略> だから英語教育を変え、会話力を育てたい。それはその通りだ。そのために授業を英語での意思疎通の場と位置づける。その発想もいい。

つまり、英語で英語を教えること自体は「悪くないじゃないか」と言っているように思える。しかし、朝日の社説は、

文法を英語で分かりやすく説明したり、生徒の質問に英語で答えたりすることは簡単ではないだろう。できたとしても、どれほどの生徒が理解できるだろう。

という疑問を呈したうえで、

いきなり英語で授業、と言われても現場は混乱するばかりだ。使える英語を身につけるためには、どうすればいいのか。そのために英語教育をどう変えるべきなのか。その道筋と環境作りを大枠で整えることが先決であり、文科省の仕事ではないか。

と言っております。要するにアイデアとしては悪くないけれど、「そんなこと、いきなり言われても困るなぁ」と言っているようです。

それにしても、日本人は「中学、高校と6年間学んでも、読み書きはともかく、とんと話せるようにならない」ということ、何年言われてきましたっけ?5年や6年のハナシではない。20年、30年も前から同じようなことが言われて来たのではありませんか?

にもかかわらず、相変わらず「英会話が上達するような環境」を作ろうってことですか?どんな環境を作ろうというのですかね。これだけ同じことを言ってきて、それでもダメだというのなら、何をやってもムダってことなのではありませんか?つまり日本人には、外国語が出来ないという民族的DNAのようなものがある・・・!?あるいは、日本人は実はこの社説や文部科学省の人が考えるほど「英語下手」ではないのでは? にもかかわらず誰かが何かの利益になるので、ダメだ・ダメだを繰り返して我々を騙そうとしているのではありません!?英語教材業界の企業とかが・・・。

朝日新聞によると「英語で授業」という案に賛成という意見ももちろんある。例えば全国英語教育研究団体連合会(全英連)なる組織の会長さんという人が、次のようにコメントしています。

英語で授業をしたら生徒が分からなくなると言う人がいるが、それは違う。言葉は使うもので、多用すれば生徒の意識も変わる。

この部分だけとると、全英連の言うことの方が当たっていますね。言葉というものは使って身につくものだということですよね。朝日の社説は、文法を英語で分かりやすく説明するのはタイヘンだ、と言っているけれど、そもそも「英語で行う英語の授業」に英文法なんてあるんですか!?This is a penという英語を教えるのに、Thisは主語で、isは動詞、aは冠詞で、penは補語だ・・・などということを「英語で」説明するんですか?「This is a penはThis is a penなんだ。ガタガタ言うんじゃねえ!」というのが、英語による授業なのではないのですか?

実は私の妻の美耶子は、中学・高校の6年間を「英語の授業は全て英語で」という環境で育っております。彼女の学校の場合、アメリカ人(日本語が殆ど分からない)と日本人が英語教師であったそうなのですが、両方とも英語で授業をしたのだそうです。いまからほぼ半世紀も前のことです。で、彼女によると、それでも英語が苦手という状態で卒業する人の方が多かったはずだとのことであります。

ところで、今回のことについてあるフィンランド人に話をしたのですが、あの国では小学校3年から外国語の授業がある。ほとんどの子供が英語をとるけれど、スウェーデン語、ドイツ語、フランス語などもありなのですね。教師は小中高いずれもフィンランド人だそうです。フィンランド語による英語の授業ということですね。それと中学校になると「最低3言語」を習う。それにはフィンランド語も含まれているので、外国語は2つってことです。それは「最低限」の話であって、実際にはあと一つか二つの外国語は習うとのことであります。

このフィンランド人によると、自分が知っている日本人でWe do not speak English as we are Japaneseという意味のことを言う人が余りにも多いのだそうです。日本人には、英語を身につけることに対する「眼に見えないバリヤ(障壁)」のようなものがあるようだ、と申しております。

最後に、朝日新聞の記事によると、文部科学省の「幹部」なる人物が、高校の英語教師は「専門として英語を教えているんだから、能力は高いはず。(英語で英語を教えるについても)先生がパニックになるようなことはないだろう」と語ったと伝えています。教員が本当に対応できるのかどうかについては、内部で殆ど議論にならなかったのだそうです。

▼この記事に出てくる「幹部」とは誰のことなのか?何故、名前を明かさないのか?不思議だと思いませんか?それから、この学習指導要領案を考えた人たちは、何故「英語で授業」がいいと考えるのかを彼ら自身の言葉で語るということはやらないのですよね。全て朝日新聞の記者が文科省から配布されたペーパーと「幹部」による匿名説明会に基づいて書いた(としか思えない)記事なので、英語でやる英語の授業がどのようなものであるのかというイメージが全く浮かんでこない。

▼教育問題はどの国でもいろいろと議論がある。英国でもいま授業内容についての見直しが行われているけれど、見直し案を発表する記者会見が、案を考えた有識者の代表によって行われています。その案についての賛否両論がいろいろとメディアで取り上げられています。今回の「英語で授業」については、そのようなパブリック・ディスカッションが全く行われていない。本当にひどい話で、英語だの日本語だのという以前の問題ですよね。

▼きりが無いので、このあたりで止めておきますが、私の結論だけ言わせてもらうと、「英語で授業」をやったから、英語で自己表現を出来るようになるということには、もちろんならない。英語が話せるということと、(国際会議などで)しっかり自己表現ができるということは全く別の問題だと思っているのであります。国際会議のような場で、英語で発言できる日本人が少ないと嘆く人がいるけれど、英語以前の問題として、日本には、言葉による自己表現そのものを抑制しようとする風習のようなものがあると思います。「男は黙って・・・」などという態度が前向きに評価されるような雰囲気を持った国からは、国際会議で自己主張をすることの出来る人はまず出てこない、と思ったほうがいい。「黙々と正しいことをやる」のではなくて、いろいろとしゃべりながら間違いもやるし、正しいこともあるという態度の方が貴重なのだと思いますね。

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4)英国の政治とジャーリストA:コメンタリアートの世界

前回に続いて、英国におけるジャーナリストと政治・政治家の関係について、Anthony Sampsonの本を参考にお話します。今回は、新聞のコラムニストと呼ばれる人たちのことですが、Sampsonは彼らのことを「コメンタリアート」(Commentariat)と呼んでいます。プロレタリアートとかテクノクラートと似たような表現で、おそらくSampsonによる造語でしょう。いろいろな事件や事柄について、専門的な立場から意見やコメントを寄稿する人たちのことで、一種の階級のようなものを作ってしまっているということで、Sampsonは多少の皮肉を込めてCommentariatと表現したのでしょう。

Guardian, the Independent, The Times, Telegraphのようないわゆる「高級紙」はもちろんのこと、大衆紙も地方紙もそれぞれスター・コラムニストのような人を抱えています。私が個人的に読むコメンタリアートというと、GuardianのPolly Toynbee(社会問題)、the IndependentのRobert Fisk(中東情勢)、TelegraphのSimon Hefferなどがいるけれど、各紙のサイトを見るととてつもない数のコメンタリアートを抱えているようであります。Timesは元首相のブレア夫人のCherie Blairをコラムニストとして使っています。

Sampsonによると、コメンタリアートのほとんどがOxbridge出身で、自分たちが政治家よりもアタマがいいことを知っている。住まいはロンドンの高級住宅街、話が面白いのでディナーパーティーのゲストとして引っ張りだこなのだそうです。最近ではコメンタリアート同士が結婚するケースが増えていて、メディアの世界の「名門家系」のようなものが出来ている。元政治家もいるし、政治家の子息もいる。さらには牧師の子息というのも多いのだそうで、The TimeのSimon Jenkinsなどは「親父は祈祷して、オレは記事を書くのさ」(My father preaches sermons and I write columns)と語っている。

Sampsonによると、英国の政・官・財・学界のトップのほぼ誰と話しをしても、ここ数十年における英国の権力構造の中でイチバン変わったのは「メディアの圧倒的な影響力(overwhelming influence of the media)」だと指摘するのだそうです。ただ、英国を動かしていることになっている、これらトップの人たちがジャーナリストについて語るとき、殆どが「恐怖か嫌悪」(fear or dislike)について語るのだそうです。尊敬(respect)ではない。では何故、コメンタリアートたちの何が嫌悪されるのかというと、「見方が近視眼的で表面的、しかも破壊的」(their short-term horizons, their superficiality and destructiveness)という部分なのだそうであります。

そのように嫌われ、恐れられるジャーナリストについて、自身がジャーナリストであったSampsonは次のように書いています。

ジャーナリストたちは、いかにも自信満々のように語るけれど、彼らのほとんどが、内面では自分たちの職業の持つ限界と頼りなさにびくびくしているのである。だから彼らは自分たちの仕事のことを「職業」というよりも「商売」と呼んだりするのだ。(most journalists, however confident they sound, are inwardly worried by the limitations and insecurities of their occupation, which they call a trade rather than a profession.)

偉そうに振舞うジャーナリストたちは、結局のところメディア企業のオーナーたちの気分(whim)次第でいつクビになっても不思議はない。オーナーには彼なりの政治的な見解と「商売としての優先順位」(commercial priorities)というものがある、とSampsonは言っています。

Sampsonはさらに、ジャーナリストと政治の関係について「メディアが如何に議会にとって代わったとしても、民主主義のプロセスにおいて、コメンタリアートたちが政治家(国会議員:MP)にとって代わることは決してできない」(However much the media have taken over over from parliament the commentariat can never replace MPs in the democratic process)と言っている。彼らは選挙で選ばれたわけではないし、国民(public)に対する責任を負っているわけでもない。コメンタリアートたちは、国会議員のように、選挙民の意思など心配する必要がなく、「政治家以上に普通の人々から隔絶した社会に住んでいるのだ」(They are even more cut off from ordinary people than MPs)と指摘しています。

自分たちが作り上げた塀の中で暮らすメディア階級のメンバーたちは、自分たちの「反響室」に閉じこもり、その中で自分たちの見解を述べ合っているのだから、彼らの政治判断も限られたものになってしまうのだ。(The self-enclosure of the media class inevitably limits its members' political judgement, as they become trapped in their own echo-chamber, repeating each other's views)

と、Sampsonは現代英国におけるジャーナリストたちの閉鎖性を痛烈に批判しています。

▼英国のコメンタリアートたちの閉鎖性については、日本人の読者である私でさえも感じることがある。新聞や雑誌に登場する彼らの意見は読んでいて大変刺激的で面白いことはあるけれど、ときとして「自分たちの世界だけで議論している」と感じることがある。「我々、左派は(we, the left)」というような表現が結構目立つのです。自分たちが属するサークルのようなものを最初から決めてしまっている人たちのつまらなさを感じるのです。

▼日本のジャーナリズムには、ここでいうようなコメンタリアートの世界のようなものはあるのでしょうか?新聞についていうと、「政治的中立」を謳い文句にしているので、思想でグループを作ってしまうということは余りないのかもしれない。それと英国ほどには、ジャーナリストがエリートとは目されていないということもあるので、サークルが出来るような基盤がないのかも・・・?

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5)どうでも英和辞書
A〜Zの総合索引はこちら
resolution:決意・決心・決議

決意も決心も同じようなものですが、決議(formal statement)となると「国連決議」というように単なる個人のハナシではなくなってくる。従って面白くない。英国のRichard Wisemanという心理学の先生が、約3000人の英米人を対象にnew year resolutions(新年の誓い)なるものがどの程度実行されているかという調査を行ったところ、成功しているのはわずか12%であったそうです。

教授によると、新年の誓いを実行するためには、誓いの中身を考える必要があり、その際のキーワードはSMARTだそうです。SSpecific(具体的)で、漠然と「健康であること」ではなく「禁煙する」とか「酒を飲みすぎない」のようになるべく具体性を持たせること。MMeasurableで、数字で測ることが可能であること。AAchievableで、達成できそうな誓いであること。RRealistic(現実的)で、TTime-basedだから「時期をはっきりさせる」ということになる。「X月X日までは必ず毎日ウォーキングをする」とか。


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6)むささびの鳴き声


▼日記風に記しておくと、年末はちょっとした理由があって、あの紅白歌合戦というのを、かなり見る羽目になってしまいました。皆様はいかがであったのでしょうか?やはり大晦日は「紅白」なのでしょうか?この年齢になると、「紅白」については昔のように腹立たしい思いをしなくなりました。というか、腹立たしいのですが、それを口にする気がしなくなりました。が、それでも歌われる曲の殆どが知らないものばかりなのには参ってしまった。やはり「紅白」は三橋美智也と春日八郎がいないと・・・。せめて都はるみちゃんだけでも出してください!

▼2009年1月3日、私、新宿へ出かけました。西口の高層ビルのある付近を歩いていたら、公園のようなところがあって、炊き出しをやっていた。いわゆる「派遣村」であったのかもしれません。

▼250万部だか300万部だかが売れたという超ベストセラーで、『国家の品格』という本がありましたよね。この本の著者は「会社は株主のもの」というアメリカ的な考え方に反対して「会社は言うまでもなく、そこで働く従業員のもの」であり「多くの日本企業の従業員はそこで長く働きますから、いつも会社のことを考えて一生懸命やっています」と言っています。でも、企業というのは「言うまでもなく」というほど明確に従業員のものである、と経営者は考えているのか?

▼ある新聞を読んでいたら、大企業が大量のリストラを発表したことについて「日本型経営の意地見せよ」というタイトルの社説を載せていました。この社説のポイントは、

雇用は経営の「調整弁」ではない。だから人員削減に安易に乗り出さない。そういう社会的責任にこだわるのが「日本型経営」の良き伝統だった。
ということにあるようです。

▼つまり、従業員は将棋の駒ではない、経営者が勝手に雇ったりクビにしたりしてはいけないということですね。この社説によると、一時、トヨタの終身雇用制度が企業としての「競争力を弱める」というわけで、アメリカの格付け会社によって格下げされたことがあり、「結局、5年後に終身雇用を含めてトヨタ経営が再評価され、最高格付けに戻った」とのことであります。この社説を読んでいて、私、大いに違和感を覚えてしまった。

▼なぜ違和感を覚えるのか?自分なりに分析してみると、この社説が、いいものとして評価している(と思える)日本型の「企業社会」に対する違和感のようであります。さんざ報道されるように、「派遣」であれ、正社員であれ、クビを切られると、それまで暮らしていた社員寮まで追い出されるとのことで、職を失うだけでなくホームレスになってしまう。そこまで企業丸抱えの生活を送っている。

▼本来なら、社員寮ではなく、自分で選んだ家に、然るべき家賃を払って住めるような給料を払っておくべきなのでは?会社がこけたら社員の人生そのものまで壊れてしまう・・・それが「日本型経営」であり、この社説に見る限り、この新聞はそのようなやり方を死守せよと言っているのと同じなのではないか?

▼私自身がもう一つ、違和感を覚えるのは、そのような企業丸抱え社会の持つ「寄らば大樹の陰」的な閉鎖性です。とにかく面倒見の良い会社に入っていれば「自分と自分の家族だけは安心。父ちゃん、よかったね!」という、あれです。本質的に孤独な社会です。本来、企業が潰れても、最低限の衣食住は確保されるような社会を作るべきなのですよね。

▼『国家の品格』がなんと言おうと、企業は経営者、株主、従業員、そしてお客さんのものなのです。従業員は大切かもしれないけれどナンバーワンではない、と経営者は考えているのであります。だから従業員も、会社は大切かもしれないけれど、ナンバーワンではない、と考えるべきなのであります。

▼それはともかく、「派遣村」なるものを主宰している人たちには敬意を表します。というわけで、例によって長々と失礼しました。

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