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美耶子の言い分
018 ことばを習得する能力の差?について

人間は一人一人違う。日本でも個性尊重の教育を・・・と云われてかなり久しい。しかし、個性尊重と一口で言うが、この言葉の中身、持つ意味はそう簡単ではないと思う。何を称して「個性」と言うのか?そもそも「集団」と「教育」と「個性尊重」という言葉にはそれぞれ両立し難い要素が含まれていて、三つ同時には成り立ちえないと私には思えるのだ。それを一緒にして「個性尊重の集団教育」をやろうというのだから、それはもともと無理な話ではないか、と思うのである。

まず、生徒の個性を尊重しようとする教師自身が、自分及び同僚の個性を尊重する姿勢を果たして意識しているか、と自問自答するところから始めてみて貰いたい。学校という職場集団の中で、教師が自分の個性を生かして(生かせて)いるかどうかを、よく考えてみてほしいのだ。集団の中でもピカリと光る自分の個性は何なのか、どういう点なのか・・・と。

学習者(生徒)の学習能力の差は本人の「個性」と関係があるのか無いのか。「個性」の一つと考えて良いのか悪いのか。つまり、「出来が良い悪い」「覚えが良い悪い」は優劣ではなく個性の一つと考えて良いのか悪いのか、というところまで突き詰めて考えてみて貰いたいのだ。 私の知っている元都立高校教師が次のように言ったことがある。「いい先生はいい生徒によって育てられる。だからやる気のないダメな子供達に教えていたら、教師の質が落ちてしまう」と。

この言葉に私はこの人の教師としての資質を疑った。ましてやこんな教師に「個性尊重教育」なんて出来っこない!と思った。彼女が言う「やる気のないダメな子供達」という判断そのものが職歴から来る自信なのかどうか知らないが、そうやって他者を決め付けてしまう一面的なものの見方しか出来ないような人が、この世の中で教師という仕事をやっている限り、「個性尊重教育」が実現するとは思えない。

百歩譲って、高校生ぐらいの年齢になると、やる気がないのに学校に来ていると思える生徒が実際にいたとしても、そのことから「自分の教師としての腕が鈍る」と発想するのは考え物だ。彼女はこの「教訓?」を彼女の尊敬する先輩教師から教わったというのを聞いて、ますます希望が持てなくなった。つまり、このようなことを考えている教師が彼女だけではないどころか、教師仲間に尊敬されているということになるのだから。

私が大人の外国人に日本語を教えてみて感じることは、人間一人一人の持つ個性の微妙な違いの面白さだ。そしてこの「個性」の違いが日本語を学習して行く上での様々な違い(学習の動機・習得の方法や速さ、習得したものの用い方、生かし方、より高いレベルへの好奇心の度合いなど)に大いに関係しているように思えることだ。個性というのは、考えてみれば人間の数だけあるのである。誰一人として同じ人間はいないのだから、個性も唯一無二なものなのだ。

「ことば」に限らず、何かを習得する時に出て来る違いは、その人が大人であれ子供であれ、「能力の差」ではなく「取り組み方の違い」、まさにその人の「持ち味」、「個人の文化」のようなものなのだと、私は言葉の学習を通してより一層はっきりと認識できたような気がする。学習能力の差?を問題にすることより、個人個人に合った丁寧な教え方に知恵を使い工夫をする楽しさに、教師自身がもっと気づくことが大事だと思った。