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美耶子の言い分
013 ボランティアが教える日本語

「うれしい」と「たのしい」はどう違うかなど、考えても見なかったが、ある日本語教師用の本に次のように書いてあったのを読んで、実際に日本語を学んでいる外国人にこんな説明が必要だろうか…と思った。これはむしろ日本語学者による日本語の無用な捏ね繰り回しではないかと。{試験がありました-a合格しました-aうれしいです}これが「嬉しい」という意味を外国人に教える方法だというのである。

自分の努力や希望が叶えられた時に使うことばが「嬉しい」で、居心地が良くてその場を去りがたいとかこの状態がもっと続いてほしいと思う時に使うことばが「楽しい」なのだと、その教科書に書いてあった。なにやら広辞苑を読んでいるみたいだ。「うれしい」とか「たのしい」とかの感情はどの国の人でも持っている人間に共通なものであるのに、上のような説明をするように言われると、「相手は異星人じゃあるまいし、、、」と思ってしまう。

「直接法」(媒介語を使わずに目標言語で教える方法)が、今の日本語教授法の主流なのであるが、これはまさに前回取り上げた日本人の「ネイティブ信仰」の逆バージョンで、日本人のヘンなこだわりに過ぎないような気がする。

一クラスに何十人もいるような町の「日本語学校」なら、いろんな国の人がいて、学習者のそれぞれの母国語で一人の教師が説明することは不可能であることは分かる。が、地方のコミュニティで日本語を教えるボランティアなら、むしろ自分が少しでも出来る外国語があれば、それを生かしてその国語を話す外国人にその国の言葉で説明しながら、目標言語である日本語を教えることは、両者にとってプラスになると思うし、かえってボランティアならではの良さとも言えるのではないだろうか。

昨今、日本語指導熱(?)が上がり、420時間を終了しているとか、検定を合格しているとかが、「鬼の首」のようになって来て、いわゆる「日本語を教える資格」を持っている人と持っていない人とを区別する流れが強くなって来た。こういう場合の通例で、有資格者の方が資格を持っていない方を締め出すという方程式で、検定試験も典型的な「落とす為の試験」である。何点以上は合格というやり方ではなく、受験者の成績の上位何%だけを合格にするというやり方だ。

基本的な能力を判断するのではなく、競走に勝てる能力を持つ者を優先させる姿勢だ。 いわゆるプロの日本語教師とボランティアで日本語を教える仕事とは、色々な意味でかなり違うものであるように思う。単に有償か無償かの違いだけではなく、学習者のニーズ(何の為に、どんな事を、どんなやり方で、どの程度、どんな学習環境で身に付けたいと望んでいるのか)を考えると、むしろボランティアの出番の方が多くなるとさえ言える。

外国人が全員文法に強くなって日本語能力試験を受けたいと思っている訳ではないのだ。このことを踏まえて今行われている「日本語教育能力検定試験」なるもので問われる内容を見ると、ボランティアの人に役に立つ基本的知識の確認を問う問題が出されているとは思えない。まるで、日本語教師養成学校で日本人に教える専門家か又は国語学者が受ける試験のような感じがして、「どうです?難しいでしょう?日本人だからといって簡単に日本語は教えられるものではないんですよ!」と言われているような気がしてくるのだ。

英語はネイティブならば専門家でなくともOKと考えているのに、日本語についてはやたらハードルを高くするというのはおかしいのではないか。 ハードルを低くしてしまえとまでは言えないがせめてこの際、日本語教師としてのハードルをプロ用とボランティア用の二通り設けても良いのではないかと思うのである。

ボランティア用の試験問題は、学習者がどんな質問をしてきてもいつでも理論武装出来ていることを要求する今のような問題ではなく、自分の知識の整理や教え方のノウハウを確認できる実践的なものにしてもらい、ボランティアはいつでも何回でもそれを受けて自己診断しながらボランティアとしての腕を磨いていけるような、そんなシステムを作るというのは、そう無理ではないのではないか。検定試験を実施している側の人達は、セミプロの良さをもう少し認識する広い視野を持つことは出来ないのだろうか。