musasabi journal
ガッちゃんの「ひとことワン

台湾十話

はじめになぜ台湾?
初めての台湾は1982年。緩みつつはあったとはいえ、まだ言論・集会等を厳しく統制する戒厳令 (1949ー1987)が敷かれていました。この時の訪問は韓国から。雪の舞うソウルから台北の空港に降り立った時は、夜風の暖かさにそれまでの緊張が一気にほぐれるかのようでした。

台湾は日本のちょうど1/10の大きさ。スイスやオランダより少し小さい国です。新聞などで記す時には、「この国(国家)」とは書きません。中国を慮って、「国」とは言わないのです。でも人口は約2400万人、経済力はベルギーやオーストリア並ですから立派な国です。

気候もそうですが、人も南国らしく温かい。言葉を話せない私は、いつもこの国の人の親切さに頼りながら旅をしています。今回の旅程を記すと、台北-宜蘭-台北-台南-隆田・烏山頭水庫(ダム)-彰化-鹿港-台中-埔里-台中-台北。主に西海岸の中南部です。今回も友人・知人のお陰で知らない地を幾つか訪ねました。

仕事で訪れる時はどうしても台北が中心でした。高層ビルが林立する首都の風景はどこも似ています。その国を体感するにはやはり各地方へ行かなくてはならないのでしょう。その意味では、私は台湾の初心者。ようやく台湾の地方を見始めたところです。小さな豊かな国ですが、様々な意味で多様性に富み複雑な国でもあります。幾つかの知らなかった地を訪れると、やはり新鮮だし、また新たな疑問もたくさん湧いてきます。日本に戻って、あわててまたこの国に関する本などをひっくり返しました。駆け足の旅に様々な人の知見を加えると、やはりこの国の姿が少しは立体的に見えてきたような気がします。
1)ダムと日本人 7)台湾流のしいたけ栽培
2)クセになる?菱の味 8)少子高齢化:日本だけの問題ではない
3)鹿港のノスタルジア 9)閑散でいいのか?原住民博物館
4)線香廃止のショック 10)「台湾語」のこれから
5)真面目さが豊かさを生む
6)「台湾ホスピタリティ」と日本人の誤解 そして、「この国」の行方
1)ダムと日本人

「台湾で一番有名な日本人」と言われるのは、八田與一(よいち)という土木・水利技師です。1921年から約10年をかけて台南市の北東に巨大な烏山頭ダム(湖)を作った人です。ダムの面積は琵琶湖の約10分の1、給排水路の総延長は1万6000キロに達し、この台南北部の嘉南平野一帯を広大な穀倉地帯に変えました。

「有名」というのは、彼の大きな業績によるのですが、学校の教科書にも載っていること、台湾の人にも公平だった彼の人柄などによる面も大きいのでしょう。これまで彼の名前は知っていましたが、詳しいことは知らず、ダムに行ったこともありませんでした。

烏山頭への最寄り駅は、台南から在来鉄道で少し北にある隆田で、ここからタクシーを利用します。ダムは粘土、砂、岩石を積み重ねて作ったセミ・ハイドロリックフィルダム。ダムのえん堤には石積み部分が表れている所もあります。一般的なコンクリートのダムのように、高いダム本体(堤体)がないし、完成から80年も経ているので、ダムは風景に溶け込み、自然の湖のようです。

湖岸に、ダム完成後に作られた八田與一の銅像があります。太平洋戦争末期に国から金属供出を迫られた時、地元民はこの銅像を隠し、40年後にまた元の位置に置いたと言われます。八田與一は戦争が始まってフィリピンへ赴任する途中、船が米国の潜水艦に撃沈され死亡。妻の外代樹は終戦後、このダムから取水口の流れに身を投げ、自殺しました。銅像の背後に八田夫妻の墓があります。
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2)クセになる?菱の味

隆田という小さな駅からタクシーで烏山頭ダムへ向かう途中、道の両側に、一面水草が浮いたような水田が広がっていました。友人が運転手に尋ねると菱田で、菱の実(菱角)はここの名産なのだそうです。この地域は、水田は年に3回収穫ができ、2回は稲作、1回を菱栽培に使うのだそうです。菱田は一つが2、3反くらいでしょう。田に湛えた水量が多いので、稲田より蓮田に似ています。日本の菱栽培は池や水路のような所で行い、収穫には舟のようなものを浮かべます。ここは水の深さが40cmくらいで、田に入って菱の実を獲ります。

菱の実を食べたことのある人は少ないでしょうが、私は佐賀にいた友人を訪ねた折に食べたことがあります。栗と落花生を合わせたような食感。でも栗より薄味で、初めて食べた時に、特においしいとは思いませんでした。

菱田の脇では、農家の女性が茹でた菱の実を売っていました。台湾の菱は、佐賀の菱より大振りで幅は5~8cmくらい。2本のトゲがあります。買って、列車の中で食べました。これが意外においしいものでした。味は薄いけれど菱の甘みがあるのです。友人と「クセになる」と言いつつ何個も食べてしまいました。

日本に帰って調べると、菱の実には様々な薬効があり、漢方薬の一つにもなっています。九州の佐賀・神埼市、福岡・大木町などでは、いま菱栽培に力を入れているそうです。
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3)鹿港の郷愁

鹿港は一度、訪れたかった町です。台湾中部の西海岸にあって、18世紀後半から20世紀初め頃まで、「一府(台南)、二鹿(鹿港)、三艋(台北)」と呼ばれ、台湾の三大都市として栄えた、名の通りの港町です。20世紀半ば以降、港がさびれ、鉄道の幹線からも外れたため、取り残された町になってしまいました。しかしそのお蔭で、台湾の人が「昔の台湾の風景です」と言う、かつての古い町並みがたくさん残っています。昔からの住宅や小さな廟がひしめく「老街」と呼ばれる通りの道幅は2~3メートルくらい。時には60~70センチの所もあります。

今この町は、観光と参拝に支えられているようです。古い町並みを見るために各地から観光客がやってきています。中国からの団体客、また白人観光客の姿も見ました。町の北に媽祖(まそ)廟である「天后宮」があり、南に龍山寺があります。どちらも台湾全土で有名な寺廟です。泊まったホテルは天后宮のそばにあり、鹿港では最も大きな建物ですが、これは天后宮の祭の時に集まる参拝客が泊まるためのようです。

街には寺廟に関係ある神・仏具店、木彫店、線香店や提灯屋、伝統菓子店があり、古めかしい仕立屋、眼鏡店、印章店などが散在しています。しかし、人気がなく中がひっそりした店、商品がホコリをかぶったような店も少なくありません。壊れかけた小さい廟なども見られます。そんな一角は、日本の地方都市のさびれた商店街とそっくりな風景です。

ホテルの近くには市場があって、朝早くからにぎわっていますが、街中には食品スーパーがあり、コンビニも幾つもあります。古い業種、業態の店がどれだけ生き延びられるのか、町の繁栄が観光と参拝で維持できるのかどうか。いま鹿港は様々な新旧がせめぎ合っているのでしょう。最低限の見物を済ませてあわただしく鹿港を離れましたが、もう一度来て、のんびり歩き回ってみたい町です。
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4)線香廃止のショック
今回、台湾で行きたかった場所の一つが、鹿港にある線香店でした。18世紀に大陸の泉州から渡ってきた「施金玉三房」という線香製造店です。昔、鹿港を紹介するテレビでこの店が映り、職人が竹ヒゴに線香の粉をまぶしている光景もありました。関心があったのは、この線香作りに欠かせない線香粉について、そして粉をまぶす作業についてでした。


線香を固める粘結剤としての粉はタブという木(台湾では「紅楠」と呼ぶ)の葉や樹皮から作るのですが、かつて台湾は、この線香タブ粉作りが盛んで、主要産業の一つでした。今もこの作業風景を見ることができるだろうかと、期待して店を訪ねたのです。残念ながら工場は遠くに移転していました。でも店の女主人から、タブ粉やその作業法などについて話を聞くことができました。

今は線香作りで、この粘結剤に合成物質を使うところも増えているが、この店では昔ながらの天然のタブ粉を使っているのだそうです。しかし、かつて大量に線香粉を生産した台湾で、今はタブの木も生産者も減り、タブ粉は中国南部と国境を接するラオス、ミャンマー、マレーシアといった国々から輸入しているのだそうです。

線香に関して、台北で友人から面白い話を聞きました。台北市のやや北、繁華街の一角に「行天宮」があります。台北で最も有名で大きな廟と言ってもよいでしょう。主神は三国志の英雄、関羽ですから、ここは「関帝廟」です。30数年前に初めて訪れた時は、何か催事があって境内は大混雑、廟からかなり離れた所にまでお香の煙と匂いが漂ってきました。

台湾では、家や店には祖先や神仏を祭る祭壇があって、日々、線香をあげます。寺廟にもよく参り、参拝客を「香客」、参拝することを「進香」と言います。人々の生活の中で線香は不可欠のものです。この行天宮が今年の夏、今後は参拝時に線香は使わないと決定したのだそうです。同時に、これも古くからのしきたりだった、紙銭(ニセの紙幣)を燃やすこと、餅などの供物を捧げることも止めました。煙や匂いが周囲に迷惑を及ぼすというのが主な理由です。台北の人々にとってはショックでしょうが、今のところは、線香のない穏やかな参拝が行われているそうです。この線香廃止は、今のところ行天宮グループのみの処置。台北の他の寺廟は従来通り、香をたく参拝客でにぎわっていました。

これについては、「中国から輸入した線香粘結剤に有毒物質が入っていたのが禁止理由」「線香の煙よりは自動車の排気が問題」など、様々な話が飛び交っているのだそうです。線香廃止が行天宮だけにとどまるのか、他の寺廟にも広がるのかは、まだわかりません。しかし、かつての線香の大産地が線香粉を輸入し、寺廟参拝に欠かせなかった線香が、有名な廟で使わなくなる。様々な生活習慣・文化が変化、衰退するのは仕方のないことですが、この線香廃止が環境配慮によるものというのは、やや驚きです。線香にとっては気の毒な感があります。
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5)真面目さが豊かさを生む
列車から台湾の田園風景を見ながら、友人とこの国を「豊かだねぇ」「まじめな国民なんだ」という話をしました。亜熱帯に属して暖かく、雨はたっぷり降る。水田は頑張れば3期作が可能。穀物、イモ類、野菜もあり、海に囲まれているから魚介類にも恵まれ、基本的な食材は賄える。果物も豊富だし、塩・砂糖に困ることもない。明、清の時代から、大陸からは「豊かな島」と見られていました。


そして、国民は基本的に、まじめで几帳面なのでしょう。中国で長い間仕事をし、暮らした経験のある友人はこの国に来て、建物壁面のタイルの張り方、道路のコンクリート板の並べ方などを見ると、「大陸(中国)よりきちんとしている」と言います。車窓から見る田畑の区画整理も行き届いています。

食に恵まれ、そこで人々が、まじめによく働いたから、この国は豊かになったのです。一人当たりのGDPは約2万1000ドル。日本の2/3くらいですが、ポルトガルと同水準です。所得格差の比較は一概に言えませんが、日本よりも少ないという数値があるし、自殺率も日本より低い。

第二次大戦後、アジア・アフリカの中では日本の復興、成長が際立っていました。台湾はその陰で目立ちませんでしたが、今や民主的で平等、豊かで安心できる国を作り上げています。近代において、間違いなく成功した「よい国」の一つでしょう。
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6)「台湾ホスピタリティ」と日本人の誤解
今回も、空港到着から帰りの空港行きのバスに乗るまで、友人や台湾の人たちのお世話になりっぱなしでした。まったく、「‘親切な台湾’頼み」です。何しろ、怪しい筆談しかできないのですから、こんな風になってしまいます。この「台湾の親切さ、ホスピタリティ」を日本人との間で話題にすると、しばしば、「日本人には親切なんだって?」「日本人には親切ですよね」という反応が返ってくることがあります。でも、この「日本人には」という部分には、少し問題があります。当人が意識しているかどうかわかりませんが、大いなる誤り、間違った理解が含まれていることがありそうだからです。

まず一つは、「日本人には」と言う時、何割かの人は、程度の差はあっても、「戦前の日本の台湾統治が悪くなかったから」といった認識やイメージを持っているか、この妙な通説に影響されている場合があります。私の知識では日本の台湾統治を簡明に説明できません。あえて言えば、植民地支配を喜んだ台湾人など少なかったでしょうし、「日本の統治は、台湾近代化に役立つことも<少しはした>」というのがせいぜいのところではないでしょうか。英国のインド統治の場合と似ているように思います。

もう一つの不思議な解釈もあります。「(台湾の人は)日本人には・・・」と言う時、「韓国の人に比べて」という意識を持って話している場合です。二つの隣国は、30数年、50年間、日本が植民地にしたという似た歴史があります。ところが、韓国の場合は今でも時折、「反日」が噴出します。こんな韓国と違って、台湾(の人)は「日本人には好意的」という思いがこもっているのです。

ひと言で言えば、二つとも日本人による自己中心的な大いなる誤解でしょう。台湾人の親切さはある意味、生来のもの。いま日本で流行り言葉のようになっている、官製風の「おもてなし」とは違います。豊かな自然に恵まれ、彼らは基本的に穏やかで親切なのです。この性格に、隣国であることや歴史的つながりから来る親しみが少し加わったのが、日本人への親切さだろうと思います。彼らのホスピタリティは、植民地時代がよかったから、またそれを懐かしがって日本人に親切なわけではないと思います。

さらに、台湾の人に比べて韓国人が日本人に不親切だというのも違う。この比較は、台湾の人にも韓国の人にも失礼かと思います。こんな解釈が的を射ているかどうかわかりません。でも、「台湾の親切」を自分に都合のよい身勝手な解釈をしていては、台湾の人と気持ちを通い合わせるのは難しいでしょう。地理的・歴史的に難しい位置にある台湾を振り返りつつ、旅でもらった様々な「親切」を自分なりにとらえなおしてみるということが必要かもしれません。
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7)台湾流のしいたけ栽培
今回の旅で、全く予定になかった埔里という都市を訪ねました。台北で友人や彼女の友達などと台湾のシイタケを話題にしていると、彼らの間で、「それなら埔里を訪ねるのがよい」ということになり、小生の知らない間に埔里に行きが決まりました。これも「台湾的親切」によるものです。

ちなみにシイタケは、世界に原産地とされる地がいくつかありますが、台湾はその一つ。ただ、私の関心事はシイタケそのものよりも、シイタケを育てる木(ホダ木)にどんな木を使っているかということでした。

台中で「友人の友人の友人」に初めて会い、彼らの車で埔里に向かいました。埔里は台中から南東に約50キロほど山に入った盆地にあります。「台湾の中心」「台湾のヘソ」とも呼ばれ、埔里市内には「台湾中心」の石碑もあるそうです。

この少し南には、台湾第一の景勝地、日月潭があります。埔里からさらに20~30キロほど東に行くと、戦前に「霧社事件」という悲惨な出来事のあった霧社に至り、さらに東へ向かえば東海岸の花蓮に出ます。

私の会社の先輩は、40年以上前に花蓮から台中までをバスで横断しています。「何時間かかったか覚えていない。東海岸近くの渓谷の道が険しく、恐ろしくて死ぬ思いだった」とか。恐らく、当時だと7、8時間はかかっているでしょう。彼は40年前の埔里を通っているはずですが、「怖かったこと、くたびれたことしか覚えていない」のだそうです。

埔里ではシイタケ問屋を訪ね、農場を見学、シイタケ乾燥業者なども訪ねました。台湾でのシイタケづくりを、私は山中でホダ木を沢山並べて栽培するといったイメージを持っていました。しかし、シイタケ農場は車で5、6分、町中といってもよい地にありました。屋内にあって、数反の広さはあるでしょう。日照調整のためのカーテンやネットで覆い、そこに長さ2、30cmのホダ木が詰まった無数のトレーが整然と並んでいました。‘シイタケ工場’です。

ここで現在使っているホダ木は台湾に多い相思木(樹)で、台湾アカシアとも呼ばれるマメ科の木です。瓶におが屑を入れ、ここにシイタケ菌を付ける栽培も行っていました。山には小規模ながら、クリ、カシ、タブの仲間の木をホダ木に、昔ながらの方法でシイタケを栽培している人も少しはいるようです。

かつては林業地だったこの町は、いまはこうした大規模なシイタケ栽培や、やはり規模の大きな花卉栽培、園芸植物育苗などが主力産業。昔から水質がよく、この水を活かし、かつては清酒づくりが、現在は紹興酒の大生産地です。

埔里へ行く途中、道端で「赤いバナナ」を買いました。一般的な台湾バナナより少し大きく、ピンク色がかった実の色。知人が自慢する通り、ねっとりと甘くおいしい。初めて訪れる地はやはり新鮮でした。埔里には紙づくり、竹工芸などの伝統産業もあるそうです。ここも、また訪れたい町です。
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8)少子高齢化:日本だけの問題ではない
台湾を離れる頃に、なんとなく気になったことがあります。台湾の少子化についてですが、直接「少子化」を考えさせられる事象に出会ったわけではありません。土曜の朝、ホテルの近くの公園を散歩していて、なんとなく自分が日本の風景の中を歩いているような気分になりました。公園には南方の木々が繁り、台湾らしい風景にもかかわらずです。理由は公園にいる人間の‘種類’のせいでした。

2、3人で体操をしているのは中高年の女性。ジョッギングしているのは中年男性。犬を散歩させているのは男性老人とやや若い女性。ブラブラと歩いているのは、皆、私と前後するくらいの年齢の人たちです。なるほど、日本に似ていると思いつつ、それまでに訪れていた台湾の地方都市でも、意外に子供たちの姿を見ていないことに気づきました。もちろん、私が歩いたのはごくわずかの場所だし、訪れた場所柄や時間帯で子供たちと会わないということは十分、考えられることです。しかし思い出してみても、確かに旅の印象の中に、子供(小学生から高校生)の姿や声がないのです。

以下は、日本に帰って改めて調べたことですが、台湾は日本や韓国同様、もしくはそれ以上に少子高齢化が進みつつありました。

日本の少子高齢化問題は20年以上前から言われ、世界に類を見ない「高齢化と少子化」、そして「人口減少」が急速に進んでいます。歯止めらしいものはかかっていません。かろうじて女性の出生率が、最低だった2005年年の1・26から1・4程度に回復したのが気休めのような数値です。

でも、なんと台湾はこの数値が1・16です。日本より低い韓国(1・23)よりさらに低い。台湾が加盟していないせいか、WHOの統計には出ないのですが、世界で最も低い国でしょう。日本は2010年時点で世界一の高齢化国家ですが、2050年には台湾が1位になるという予測もあります。この豊かな国がどうなるのか気がかりだし、少子・高齢化社会の先頭を走る日本と台湾、さらに韓国はお互いの知恵を分かち合い、また協力してこの問題を考えるべき時かもしれません。
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9)閑散でいいのか?原住民博物館
台北を訪れる外国人観光客が必ずといってよいほど訪れるのが、市北部にある故宮博物館です。博物館周辺には観光バスやタクシーがたくさん並んでいます。この故宮博物館の斜め向かいに、順益台湾原住民博物館があります。自動車事業で成功した企業グループの創始者が設立したものです。土曜日の昼に訪れた時、見学者は私たち含め4人だけでした。

私は台湾原住民についてはよく知りません。一般的な台湾史にあるわずかの知識しかありません。でもここ数年、実にぼんやりとですが、大陸から中華民族が移住する前の台湾の様子を少し知りたいと思うようになりました。一つの理由は自分たちのルーツ探しです。古代に南方から黒潮に乗って日本に伝来した人々の生活、文化のあり様が、台湾原住民の生活の中に見られるのかもしれないという思いがあるからです。

もう一つは、これからの台湾を考える上でのことです。いま原住民族の部族は大別して14、人口は合わせて40~50万人、台湾全人口の2~3%と言われます。本当に少数派です。しかし、過去に大陸からやってきた中華民族は圧倒的に男が多く、台湾で結婚し子孫を残しました。恐らく、現在の台湾人の多くの人々には、何らかの原住民族の血が混じっているのでしょう。今後の台湾を考える時、台湾の人たち自身が、また私たちも、数千年間この島で暮らしてきた原住民たちの生活と文化をもう少し知らなくてはいけないように思えるのです。

もちろん、ここで記したようにはっきり意識していたわけではなく、漠然とこうした「感じ」を持っていただけです。だから訪れての、改まった感想はありません。しかしここで、いくつかの原住民族の伝統的な風習、儀式等の様子を映像や絵で見ると、実に懐かしい?ような不思議な気持ちにとらわれます。「あぁ、ここに自分たちの祖先が生きている」といった不思議な感動です。

いくつかの海沿いの原住民の褌姿を見ると、まったく昔の日本の漁師の姿と同じです。褌は多分、私が高校の時に締めた六尺褌です。締め方も基本的には同じ、後の結び方は、彼らの方の恰好がいい。そして、子供が一定年齢に達して経験する通過儀礼で見せるお辞儀の仕草も、日本人の子供がするのとまったく同じでした。台湾原住民族について日本語で書かれた本などがあるのかどうか、これから少し調べてみなくてはなりません。
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10)「台湾語」のこれから
台湾は日本の九州より少し小さい国ですが、この国の言語状況はなかなか複雑で、かつ少し深刻でもあります。この島の住民は中国系が97.8%、古代からの原住民が2.3%。そして中国系は約400年前以降、台湾に移り住んで来た主に福建系の人々が約70%で、「本省人」と呼ばれる彼らが、台湾国民の圧倒的多数を占めています。そして、やはり17~18世紀以降、移住して来た「客家(はっか)人」、第2次大戦後、国民党政府と一緒に渡ってきた中国各地の人々である「外省人」が、それぞれ14%ほどを占めます。

このグループごとに母語が異なります。一般的に台湾の人々が日常に使う母国語と言えるのは、福建語系の台湾語(?南語)。「?(みん)」は、大陸の福建省一体を指す地域名です。そして、客家人の使う客家語、外省人の使う中国語、原住民族それぞれが用いる言語があります。

しかし、この国では、1895年に日本の植民地になってから50年間、公用語は日本語でした。大戦後は大陸からやってきた国民党政府によって中国語(北京語)が国語となり、学校教育、放送も中国語で行われました。台湾語や客家語によるラジオ・テレビ放送が始まるのは1990年以降のことです。

今回、台北で、台湾の友人たちが会話をしている時に、「それは何語で話しているの?」と尋ねると、しばしば「中国語です」という答えが返ってきました。年配の人と若者が話す時は、中国語を使うことが増えています。もちろん、本省人の家では若い人も台湾語を使っているし、台湾中部より南、また東海岸地域では、依然として会話の言葉は台湾語が中心です。でも、「台北を中心に、台湾北部では中国語を使う人が多くなっている」のだそうです。

理由の一つは、この約40年の中国語教育で、若年、中高年層が中国語に習熟してきたことがあります。拍車をかけているのがこの10~20年の中国大陸との交流です。何しろ中国との貿易が台湾の貿易の3割以上を占め、中国のネットは自由に見ることができ、さらにここ数年は大陸からの観光客が急増しています。否が応でも、中国語の比重が高まる状況にあるのです。

台湾語が中国語に押される理由は他にもあります。台湾語は文字表記ができない、というか文字表記法が確立していないという言語の致命的な弱点があります。台湾語を漢字もしくはアルファベットで表記しようと言う試みは幾つもあったようですが、確立、定着するには至っていないようです。

今の台湾の複雑な言語事情を、小生に的確に記すことはできません。しかし、「台湾語」と呼ばれてきた福建系の言葉が難しい状況にあることは間違いなさそうです。5000万人を超える人々が用い、優れた文学も持っているインドの地方言語でさえ、「若い人はきちんと書けなくなっている。悲しいことだ」とインドの友人は言います。英語に押されているのです。

千数百万人の人が母語としてきた台湾語がこれからどうなるのか。台湾の人々が、自分たちの台湾語をどの程度、意識してこの問題と取り組むのか。もしくは、様々な抵抗や対応があっても、なし崩し的に、中国語(北京語)に飲み込まれていくのか。もうすぐ、これは台湾の大きな問題として顕在化するのでしょう。
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そして、「この国」のゆくえ
私の滞在時期、台湾は統一地方選の終盤でした。各地で街中にあふれる選挙の看板やポスターを見たし、候補者の街頭演説、応援集会に出くわし、ティッシュペーパーやボールペンももらいました。そして日本に帰って数日後が投票日。現政権を握る国民党が大敗、民進党を中心に野党勢力が大きく勢力を伸ばすという結果でした。内外の多くの論調が指摘するように、台湾国民は、現政権が進めてきた中国との急速な接近に不安を感じ、これに対して「ノー」と言ったのです。

既に、輸出の30%、対外投資の50%以上を中国が占めています。経済分野では、「抜きさしならぬ」関係にあると言えます。日常生活の中では、中国語の比重が高まりつつあり、漢字の字体もこれまで台湾で使われてきた繁体字に対して中国の簡体字の使用が増えています。台湾男性の結婚の相手としてはベトナム人女性などのほかに中国(大陸)人女性も増えつつあるそうです。台湾は、今は豊かで安心して暮らせる国です。でも人々が、将来は大陸・中国に吸収されるかもしれないという不安を持ち、それが高まっているのは間違いないでしょう。

この国の将来は、否応なく中国との関係を抜きに考えることはできません。人口の97%は中国民族であり、言葉もやはり中国語の一つです。乱暴な言い方をすれば、台湾の将来は、中国に飲み込まれるか、現状のように中国に国とは認められず国連に加盟できなくても、実質的な国家として自立し続けるかの二つしかありません。中国の共産党政権が今のような姿勢である限り、「一国二制度」などはあり得ません。中国の主権の下に入れば、「鯨呑」されてしまうのです。香港の例を見てもはっきりしていることです。

しかし、せっかく成立した台湾のような豊かな民主国家が消滅するのは実にもったいないことです。台湾の人々にとって、大きな不幸です。日本にとってみれば、こだわりなく手を携えられる数少ない大事な国であり、こうした国がなくなるのは、はかりしれない痛手です。もちろん、アジア全体、世界にとっても損失となるでしょう。

台湾の将来について、乏しい知識で推測を重ねてもあまり意味はありません。でもこの国が、日本の将来と、かなりかかわりがありそうなことは間違いありません。とりわけ日本の若い人は、もう少し台湾を意識した方がいいように思います。また、台湾の若者には、「漫画やゲームの日本」を知るだけではなく、日本(の若者)をもっと刺激してほしいとも思うのです。二つの国の若い人たちにとって、近くて、お互いに率直に話ができる数少ない国が日本と台湾。この関係の貴重さをぜひ理解し、生かしてほしいものです。
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