home backnumbers uk watch finland watch
どうでも英和辞書 むささびの鳴き声 美耶子のコラム green alliance
むささびの鳴き声
013 英語教育、アサクサゴー世代の言い分
私の好きな英語に「トウチャン、カアチャン、アサクサ・ゴー。オレ、ハングリ・ハングリ」というのがある。訳すと「父ちゃんも母ちゃんも浅草へ行っちまったんだ。俺、お腹がぺこぺこ・・・」となる。今から殆ど60年も前、戦争直後の日本で、子供たちがアメリカの兵隊さんに必死になって空腹を訴えるのに使った"英語"である。

英語嫌いの理由
で、私が英語なるものに接したのは、50年も前、中学になってからのことで、文句なしに嫌いであった。尤も私は(自慢するわけではないが)勉強とか授業と名の付くものには全てアレルギー体質を持っていたので、英語だけが例外的に嫌いであったということではない。が、50年も前のことなのに自分が英語をどのように嫌いであったのかは、わりとよく覚えているのだ。

例えば「これはペンだ」というのを英語に直せという問題があったとしよう。私の場合、This pen isと書いて×をもらう。「私は学校へ行く」はもちろんI school go。教科書を見ると「英語では主語・動詞・修飾語・形容詞・目的語の順番で・・・」などと書いてある。主語って何?修飾語なんて聞いたことないな、というわけで、英語を勉強しているはずなのに、それを説明する日本語が分からなくて挫折していたのである。私の想像によると、いわゆる「出来のいい子」の場合、何故かThis is a penという言葉が素直に頭に入り、さしたる抵抗もなく定着していたということなのだろう。うらやましい話である。

画期的、電話授業
ところで私の奥さんは家庭教師として、主に中学生に英語や数学を教えてほぼ40年というキャリアを持っているのであるが、最近彼女が採用している電話による英語の授業方法は注目に値する。5人の中学3年生を相手に週に1回2時間、普通に(寺子屋方式で)英語を教えているのであるが、それでは満足な進歩をするには足りない。かといってもう一日授業を増やすこともできない・・・ということで窮余の一策として彼女が考えついたのが電話による復習である。時間は一人15分程度。電話口に生徒を呼び出して英語の教科書を読ませたりする。「では教科書を閉じて、私の言うとおり繰り返してくださいね」などと言いながら授業を進めている。

町の英会話学校などではテレビ電話を使って会話の練習をするというサービスも提供しているというが、彼女の電話授業が画期的なのは、むしろ普通の電話を使っているという点にある。この授業は耳だけが頼りであるから、生徒はイヤでも先生の言うことに神経を集中して耳を傾ける。反復練習する時に教科書をカンニングすることも可能ではあるが、実はそれはたいしたことではない。教師の言う英語をひたすら反復する(自分の英語を自分の耳で聞く)ということがポイントなのである。私も50年前にThis is a penというのを繰り返し口にしていれば少しは「出来る子」になっていたかもしれない(いまごろ言っても遅いけれど)。

小学校から英語?
最近、文部科学省が小学校から英語を教えることを考えているという新聞記事を読んだ。記事の詳細は覚えていないけれど、「タチの悪い冗談は止めて貰いたいものだ」と思ってウェブサイトを当ってみたら文部科学省のサイトの中に「英語が使える日本人の育成のための戦略構想」というもの凄い名前のページがあって、その中で日本人の(特に子供たちの)英語力を向上させるための計画が語られており、イントロの部分に「経済・社会のグローバル化が進展する中、子ども達が21世紀を生き抜くためには、国際的共通語となっている『英語』によるコミュニケーション能力を身に付けることが必要であり・・・」と書かれている。

おいてきぼり恐怖症の哀しさ
外国人に出会っても臆することなく「(アメリカ人みたいに)カッコよくペラペラと英語をしゃべりまくって・・・」という子供にしたいと念願する親を責めようとは思わない(賞賛する気にもならないけれど)。そうした親たちが子供を町の英会話学校にやらせたければ、それもいい。しかし小学校に英語の授業を取り入れることで、否応なしに音楽・美術・体育・国語などが削られるのだとしたら本当に情けない。 「経済・社会のグローバル化」とか「21世紀を生き抜く」という言葉の端々に「欧米人のようにならなければ人間扱いされない」という劣等感と「おいてきぼり恐怖症」の哀しい臭いをかいでしまう。

アメリカとヨーロッパだけが「世界」ではないし、英語だけが言語ではない。また外国語を話せるようになることだけが外国人と交わる方法ではない。そして外国人と交わることだけが人生ではない。子供たちは「21世紀を生き抜くために」この世に生まれてきたのではない。

笑ってしまう、英語特区
英語特区なるものがあって、そこでは小・中・高一環教育で英語を教えるのだそうだ。青い目の若い先生たちが日本語の算数の教科書を英語に直しているのをテレビで見た。社会・理科・音楽などなど「国語以外」は全て英語で授業をするらしい。要するにこの学校では時間の割り振りに関する限り、国語がこれまでの英語と同じような扱いを受けるようになる。つまり日本語が外国語になるわけだ。またこの学校の教育の重点目標の一つに「日本の伝統・文化の理解を深めるための特別授業の実施」というのがあった。この学校においては日本の伝統や文化は「特別授業」においてのみ語られる文化ということになる。不思議な話である。

英語に限らず外国語ができると世界が広くなる。そのこと自体は素晴しいことであると思うけれど、それは「21世紀を生き抜く」などという身構えたものではない。歌が上手・おいしい料理が作れる・野球がうまい・何故か他人に親切・・・などの「特技」でも外国の人たちとの交わりはできるし、世界は広がる。何故それほど「英語ができる」ということにこだわるか?

抜本的改善?ノーサンキュー
先の「戦略構想」は「日本人に対する英語教育を抜本的に改善する」と謳っている。「日本人は中学・高校と6年間も英語を勉強するのに喋れる人が少ない。これは英語の教え方が間違っているからだ」という議論はこれまで20-30年も言われてきている。もし英語が話せることが、子供たち一人一人の人生にとってそれほど大切なことであり、小学校の時代から教えれば事態は大いに改善される、というのであれば、今の今まで何故それをやらなかったのか?それをやらなかったことで、日本という国にとって、あるいは私たち日本人にとって、何か具体的に不都合なことでもあったのか?

最初に書いた、私の好きな「アサクサ・ゴー」英語をしゃべった子どもたちは、私などよりも少しだけ年上の人たちだ。この人たちがホンダ、トヨタ、ソニーを海外に売り出し、日本を「世界第二の経済大国」に押し上げたわけである。私の仕事上の経験からしても最近は英語を使える人の数が非常に増えていることは間違いないし、それ自体は悪いことではない。彼らはおそらく「アサクサ・ゴー」世代の子供たちであり、孫たちであろう。英語教育を「抜本的に改善」などしなくても英語を使える人の数は確実に増えているではないか。

国語力にも口出し
ところで文部科学省の「戦略構想」によると、「(日本人の多くが)しっかりした国語力に基づき、自らの意見を表現する能力も十分とはいえない」というわけで、英語力を鍛えるだけでなく、国語の力向上にも大いに力を入れるのだそうだ。つまり英語と日本語の両方を訓練しようってこと?!私の考えによると、現在、欠けているかもしれないのは、自分の意見を表現する国語力ではないし、ましてや英語力でもない。表現するに足る「自らの意見」(あるいは「自分」)そのものが欠けているのである。これは言葉を鍛えるだけでは身に付かない。

白状すると、私は英語がうまいと思っている。念のために言っておくけれど、「白状」しているのは「英語がうまい」ということではなく「と思っている」という部分である。本当は「私はこうして英語がうまくなった!」というようなサクセスストーリーでも書いたらさぞやカッコよくて気持ちがいいだろうと思うけれど、残念ながら自分の「サクセス」を客観的に裏付けるもの(例えば英検超1級とか)が、私には何もない。さらに言うと、私は噂に聞くトッフルだのトイックだのというテストを受けようとは絶対に思わない。悲惨な結果が出て家中の物笑いの種になる(かもしれない)のが不愉快なのである。
(2003年5月)